娘が最終学年、美術で習ったのは素描でした。

2学期あたりは「鉛筆はこう削ったほうがいいよ」ぐらいの初心者対応だったそうですが、3学期末に仕上げたデッサンを見て美術の先生に「前回のデッサン持っている?」と聞かれたそうです。

前回と今回、2枚のデッサンと見比べながら言われたのが「もしかして美術の予備校に行き始めた?」でした。

 

美術の予備校には通っていません。

でも家でやっていたことがあります。

それは毎日1枚20分母デッサン教室。

もともとは20分間、真剣に物と向き合うことによって娘の集中力をアップさせようと始めたことでしたが、鉛筆や練りけし、クロッキー帳などを、あえて美術予備校の画材売り場まで買いに行っているうちにふたりで盛り上がってしまい、期末テストが始まる直前まで続けていました。

20分の内訳は、と言いますと。最初の15分は自分で好きなように描き、途中で描くのを一度やめてわたしが講評をし、残りの5分で直して合計20分でフィニッシュ!

絵だけでなく、その習慣も褒められたそうで、娘はとても喜んでいました。

さらに「高校からは美術部に入りなよ!」と先生と部長さんからお誘いいただいたそうで、兼部ができるか今、絶賛悩み中です。

うーん、青春♪

 

そんな娘と天王洲アイルの寺田倉庫で行われている『ゴッホ Alive展』に行ってきました。

ゴッホの絵をARで展示し、その人生を文章で辿るという全身でゴッホを感じるその展示会で、こんな言葉を見つけました。

 

 

うん。こういう人いた。

 

絵の才能というものはとても残酷なもので、正直、努力なんて言葉は辞書からなくしてほしいと思えるほど、たった1本の線で全てが描ける人がいた。

画用紙がある。

鉛筆がある。

1秒という時間がある。

その人がくるりと画用紙にまるい形を描くと、重さのある、かさりとした質感の、向こう側までクルリと周った卵を存在させることができるのだ。

 

そういう才能がある人が、ゴッホのような境地に至ると、そこには無双しかない。

 

わたしは高校生の時、芸大生の彼氏とつきあっていたのだけど、予備校で描いたデッサンを鉛筆でザッザッと直されて「picoちゃんは何でこういう風に描けないの?」とキョトンとした目で聞かれのを思い出します。

お勉強という意味ではとんでもなくおバカさんだったので(当時の芸大美大受験は学科点が低ければ低いほど実技点が高かったことを意味していたので、むしろ低偏差値は自慢中の自慢です)「なんで◯◯くんは高校生が解ける数学の問題も解けないのよ?」と言い返して喜ばせていましたが、その時のわたしの世界では絵が全てで、本当は数学なんてどうでも良かった。

 

絶対的に揺るがない才能というものがある。

努力では追いつけない領域がある。

わたしは多感な時に身をもって知ってしまった。

 

たぶん音楽もスポーツも同じだろう。

そして勉強も才能なんだろうな、と思っている。

身も蓋もないけど、容姿やコミュニケーション能力も。

ああ、人間社会が総合評価で本当に良かった♡

 

そんな目の前にそびえたつ才能を前に人はどうしたらいいか。

と言えば、満身創痍で血豆のできた足を引きずって、死屍累々のうえを、遥かかなたで輝く才能を持った人間の背中を見ながら歩くしかなかった。わたしは。

 

娘が同じ道に来るかもしれない、と思うと少し楽しみな気もするし恐ろしい気もする。

芸大美大を受験するとなると、平日は学校帰りに18時から21時まで塾で絵を描くし、長期休暇は朝9時から18時まで予備校に通う。

体も疲れるけれど、思ったように描かれてくれない線に、色に、他の人の煌めきに、神経がボロボロになるので帰ってから勉強なんて絶対に無理で、残念ながら桜蔭の子ですら学業との両立は難しいと言っていた。

だから、化学系と美術系の二兎は追えないと思う。

 

娘は、数学で受けられる美大の学部があるのを知っていて、最後どうにも勉強ができなかったらそこに行けばいいと思っているフシがある。

でも美術の才能との一騎打ちをしないなら、わたしは美大受験を薦めない。

いや、昨今の芸大美大が求めているものから鑑みると、「美術」でなくてもいい「表現」から逃げるなら行かないほうがいい場所だ。

勉強という才能との戦いも避け、芸術にも向き合わなかったら、大学に行く意味なんてないと思う。

 

勉強でもいい、芸術表現でもいい。到底叶わない相手の背中を泣きじゃくりながら愚直に追う、そんな体験ができれば、実は大学のジャンルも偏差値も超えて、娘の人生における受験は成功なんじゃないかなと思っている。

 

で、最後に救いのある話をしますと、才能は、誰にでも、どこかにありました。

絵では学生時代から賞を取り続けていた元彼氏にはとうてい叶わなかったけど、ある日、美術予備校の論文の先生に呼び出されたのです。

「picotさんはフラクタル幾何学が好きなの?」と。

「いえ、なんですか?それは美味しいものでしょうか」と聞くと「ふーん。知らないんだ。君、論文の中でフラクタル幾何学を証明できてるよ。藝大ならデザイン科じゃなくて芸術学科受ければいいのに」と言われて、高校生のわたしは「へっへーん」と自信が天井近くまで回復されたのを覚えています。

今なら先端芸術学科を間違いなく受けてた!

 

才能とは平等に分け与えられるものではないけれど、その時に求めるもの以外の才能がどこかに眠っているかもしれなくて、その剣を研ぐことで生きていくことができそうだ。

ということも多感な時期に自分で実感ができて良かった。

己を知ることは苦しみを伴うけど、4月から高校生になる娘もそうやって今の時期を過ごしてくれると嬉しいな、と思います。

 

さて、娘ちゃんの才能はどこに眠っているのかな。

モーニングスターが合わなかったら、ブレードに持ち替えればいい。ブレードが手に余るようならスピアーに替えてもいい。自分に合う武器を手に、さあ第1回天下一武道会は3年後♪

楽しみです。

 

ゴッホさん、ありがとう!