<クレインとグリーナウェイ>

 ウォルター・クレインとケイト・グリーナウェイの挿絵って似てると思ったことはありませんか?
 初めて二人の絵のを目にする方だと一目で判別するのは難しいかもしれません。
 この二人、画風の相似の如何は別として、その活動は似て非なるものでした。
 絵本ばかりではなく、ウィリアム・モリスの芸術運動に参加し、フランス的アール・ヌーヴォに異を唱えイギリス的アール・ヌーヴォを主張しつづけた生粋の芸術家であるクレイン。
 彼がその芸術活動に没頭している間に、子供の絵本を通じて巷のポピュラリティを一気に独占したグリーナウェイ。
 その因縁めいた二人ですが、共著による作品もいくつかあります。そのひとつを取り上げてみます。

 “ THE QUIVER OF LOVE (1876年) ” 
 (Illustrated by Walter Crane & Kate Greenaway)

  

 (London Marcus Ward & Co,. 1876)

 “THE QUIVER OF LOVE A Collection of Valentines”と題されたこの本はヴァレンタイン用のギフトブックとして恋愛の詩を編んだものです。
 出版記録によるとクレインとグリーナウェイが中のカラープレートを4枚づつ手がけているようです。
 ラピス色の非常に爽やかな装丁に、金や銀がほどこされた多色刷石版画の挿絵という大変贅沢な作りになっています。カラープレート以外にも全頁に天使などをモチーフにしたカットが描かれています。

 

  

 

 当時、クレインがアンチ・グリーナウェイであったことは有名です。
 その二人が仲良く共著を承諾したのかどうかは興味のつきないところですよね。
 クレインのグリーナウェイ嫌いの端緒がどこにあるのか、ちょっと見てみましょう。
 一般に言われているそのきっかけとなった事件は、グリーナウェイの「Under The Window」の出版でした。

 海野弘さんが著書「世紀末のイラストレーター達」(美術出版社、1976年)に詳しく書いておりますので、それを引用させていただきます。

「1876年に出版された『赤ん坊のオペラ』は子供の本としては大変な成功を収めた。クレインは子供の本を続けて頼まれていたが、忙しくて伸ばしていたところ、1877年のクリスマスに『赤ん坊のオペラ』の姉妹編というキャッチフレーズでケイト・グリーナウェイの『窓の下』がルートリッジから出され、クレインをびっくりさせた。クレインの抗議で、このキャッチフレーズはひっこめられたのだが、グリーナウェイはクレインの本に似せた本を次々と出す。クレインは『一人の芸術家の回想』の中でそのことを皮肉な言い方で語っている。『彼女は日の照っているうちに。私よりもたくさん刈り取った。太陽は今のところ彼女に充分明るく輝いている。それはあまり長く照ってはいないかもしれないにしても。』・・・(以下、略)」

 

 

 

 この本の挿絵にあたっても出版記録とは別に「8枚のカラー挿絵はすべてクレインの手によるもので、中のカットをグリーナウェイが担当した」と言う意見もあるようです。
出版社としては、目下売出し中の人気挿絵画家二人のコラボレーションにより衆目を集め、販売実績に結びつける意図があるのは今も昔も同じことです。
しかし、クレインとしては自分一人でも手がけられる仕事を彼女と二分することにプライドを傷つけられたため条件を付したと言う推測がそこに働いているようです。
ですが当時は二人とも、まだ押しも押されぬといった実績を積むにいたっておりませんので、あまり反目する部分だけを取り上げるのは余計なこととも言えそうです。
挿絵中にサインは入っていませんので絵をみて判断するしかないですね。


 

 

 

  参考までに1875年に刊行されたグリーナウェイの“ Melcomb Manor, A Family Chronicle ”を載せておきます。じっくり見比べてみてください。
8枚中、何枚がクレインなのでしょうか?やはり半分づつでしょうか?
判断材料のひとつはクレインの描く目の特徴です。
他にもありますが自分で探してみるというそれも楽しみの一つだと思います。

“ Melcomb Manor, A Family Chronicle (1875年)”
(Illustrated by Kate Greenaway)

 

 (London. Belfast Marcus Ward & Co. Royal Ulster Works.)

 寝込みそうな予感がするのでそうなる前に一気呵成にクレインの記事を書いてしまおうかと思っています。
 次は「Flowers from Shakespeare's garden」周辺を取り上げてクレインに一区切りをつける予定です。

 

 
 

 

 

  Laurence Housman (1865 - 1959)

 

 

 「19世紀末の挿絵」のラストは、リッケッツ、ビアズリーと共にイギリスのアール・ヌーヴォを代表するローレンス・ハウスマンを取り上げることにしました。

 

  Arabian Nights(Hodder&Stoughton,1907)
 

 ローレンス・ハウスマンは、1865年7月18日にブロムズグローヴ(ウースターシャー)で生まれました。彼の父、エドワード・ハウスマン(1831–1894))は、非常に保守的で厳格な事務弁護士でした。母親はローレンスが5歳の時に死別しています。以後、彼は他の兄弟(アルフレッド・エドワード・ハウスマン、ロバート、バジル、ハーバート、クレメンス、ケイト)と共に父親に育てられます。
ローレンスは美術をランベス美術学校と王立アート・カレッジで学びました。
絵画のみではない彼の多岐に渡る才能はベイリー・ギャラリー、新英国芸術クラブなどで早くから示されました。
彼が手がけた挿絵としては「Goblin Market」」(1893)、「The Sensitive Plant」(1898)、妹クレメンスが書いた小説「The Were-Wolf」(1886)などが挙げられます。
文筆方面では2冊の詩「Green Arras」(1896)、「Spikenard」(1898)を発表しました。
1900年に「An Englishwoman's Love-Letters 」を発表した時は大きな物議を引き起こします。それは商業的にも非常に成功し、著作権使用料で£2,000以上の報酬を受けたと言われています。更に、この時期にはマンチェスター・ガーディアンのための芸術批評家としても働いていました。
1906年、ハウスマンは、劇「プルーネラ」を制作するために、H・グランビル・バーカーの活動に加わりました。
1907年には婦人参政権運動のために、献身的な社会主義者であり平和主義者であったヘンリー・ネヴィンソンとヘンリー・ブレールスフォードと交友を深めます。これは彼の活動に大きな変化をもたらしました。
彼の伝記作者キャサリン・クッキンは「ロレンスとクレメンスは、ケンジントンのエドワーズ・スクエア・ペンブルックシア・コテージへ引っ越し、これは社会主義者の活動本部(Suffrage Atelier)のための拠点となった」と述べています。
第一次世界大戦の間、彼はシルヴィア・パンカーストと協力して彼女の新聞(The Workers' Dreadnought)に寄稿しました。
1916年には、彼は国際連盟を支持し巡回講演に随行してアメリカ合衆国を訪問しています。また彼は性的心理学と独立労働党の研究のための英国協会のメンバーでもありました。
視力が衰え始めた1920年代からは挿絵などの制作を止め、脚本などの文筆業と社会主義活動に専心します。1937年に彼は自叙伝を発表しました。
ローレンスは 平和誓約共同体(the Peace Pledge Union)の強力な支持者でした。1945年、組合はロンドン・シャフツベリー通りにHousmans Bookshopを開き、それは平和主義に関する情報発信の主要拠点となりました。
彼は、婦人参政権に反対し性差別を容認する保守的な人々をひどく嫌悪したと言われています。
1955年、芸術と政治運動の両面で彼をサポートし続けたクレメンスが死去し、ローレンスを悲嘆の底に落とします。そして、ローレンス・ハウスマンは1959年2月20日にサマセット・グラストンベリーのバトレイ病院で亡くなりました。

 

 Princess Badoura (London Hodder and Stoughton 1913 ) 

  

 

  ローレンスは自己の詩集や小説などの他に「アラビアン・ナイト」の翻訳や再話を手がけてもいます。
 1913年に刊行された“ Princess Badoura ”はその美装も見事ですが、エドマン・デュラックが素晴らしい挿絵をつけています。

  “ The Sensitive Plant ” (1899年)
  New York:E.P. Dutton&Co,1899

  邦題「ねむりぐさ(含羞草)」は「プロミーシウスの解縛」と共に出版されたシェリ(Percy Bysshe Shelley)の九篇の詩のひとつです。ローレンスはこの詩集のために11枚の挿絵を描き、その木版は妹クレメンスの手によって彫版されています。

 

  

 

  「園に一株の眠り草、清冽な風は銀の露を伴う。光によって目覚める葉の扇、そして彼らは夜の口づけでそっと閉じてゆく。」(“The Sinsitive Plant” 第一部第一節)

 パーシー・ビッシュ・シェリ(1792-1822)は徹底した無神論者でした。
 マルクスは彼を指して「シェリが不運な事故で命を落とさなければ、彼はイギリスの社会主義運動の偉大な先駆者になったであろう」と述べています。
 ローレンスが、イギリスの労働者階級にもっとも影響を与えた詩人として稀有な存在であるシェリの作品を選んだのは単なる偶然であるはずがありません。
 その背景を少しだけでもお伝えできればと思い、前述でややくどくローレンスの社会主義活動のご紹介をしました。その詳細については数多くの専門書がでておりますのでご興味があればご一読いただければと思います。またシェリについては別の機会に触れることがあるかと思いますのでここではスキップさせていただきます。 

 

  

 

  「薔薇は今しも水浴の身支度を済ませた妖精のごとくに、彼女の沸き立つ胸の奥まで顕かにした。衰え行く空気にたえまなく折り重なり、彼女の美と愛の魂を露わにした。」(“The Sinsitive Plant”第一部第八節)

 シェリの詩は現実感や官能性といったものからは遠く、ロマンティックな青年の熱情と清潔さに溢れています。ローレンスの挿絵はその青年の愛に対する憧憬と苦悩とを微細な線で美しく描きだしています。それはシェリとローレンスの理想世界の実現に対する情熱が共鳴し生みだしたと言えるかもしれません。   
 

 

 

  最後に神保菘さんの翻訳による“The Sinsitive Plant”の結びをご紹介します。

 「ねむりぐさ」や、その外形が朽ちる前に、その枝の中に「精」のように座っていた者が、今この変化を感じたかどうかは私にはわからない。
 あの「貴婦人」の優しい心が、星が光をふりまくように愛をふりまいた。
 あの姿とはもう結びついていないのか、喜びを置いていったあところに悲しみをみたかどうか、私には推測できない。
 だがこの誤りと無知と争いの世、つまり、実在するものがなく、すべてはらしく見えるものばかり、我々はみな夢の亡霊。
 そういう世では死そのものが、他のすべて同様贋物にちがいないと認めることが適当な信条で、考えてみれば楽しい信条ではないか。
 あの楽しい庭、あの美しい貴婦人、それにあそこのあらゆる楽しい姿と香りは、実は決して死んではいない。
 変わったのは我々、我々のもので、彼等ではないのだ。
 愛や美や喜びに死も変化もないから。
 彼らの力は我々の諸機関に勝る。
 これらは存在が不確かゆえに光が射すとたまらない。
 

 

 (神保菘「対訳ねむりぐさ」大阪教育図書、2002年初版)  

 次はウォルター・クレインを再度取り上げて20世紀初頭の挿絵に入りたいと思っています。が、最近、体調が思わしくないため少し間を置かせていただくかもしれません。

 

 
 

 

 

 

 

 Henry Hetherington Emmerson (1831-95)
 

  1888年( Laing Art Gallery )

 あまり知名度の無いと言うか、むしろ日本では無名に近い画家かもしれません。
 画風だけを見るとグリーナウェイの真似のようにも見えますが、実は彼の方が油彩や水彩画家としては先達なのです。
 まとまった挿絵を伴う絵本は極めて少ないですが、晩年、子供用のトイブックなどを少し手がけており、それを通じて彼の挿絵に触れることができます。

 H.H.Emmersonについてご紹介します。

 

  (1882年、Laing Art Gallery)

 

  (1888年、John Hammond)
 

  エマーソンは1831年にイギリスのサウスシールズで生まれ、そして、ユニオン・イングリッシュ・スクールに通います。海岸にほど近かった学校に通う間、彼は海の風景を熱心に描き続けます。
 学校を卒業後、極めて短い期間ではありましたが彼はパイロットの職につきました。
 しかし、画家になることを目指した彼はニューカッスルにあるロイヤル・デザイン・スクールを受験することを決め職を去り、そして、絵画技法の勉強するためにパリへと渡りました。
 彼はアカデミックで古典的なきっちりとした絵よりも、より淡彩に近い画風を好み、それを作品に生かしました。
 美術学校を出た後も彼はパリで仕事を得て生活を続けました。現存するパリ時代の作品の大部分は田園風景と航海を題材とした水彩画です。
 イギリスに戻った後、本格的に油彩作品を手がけると共に、いくつかの挿絵本に取り組みました。
 彼は印象派に組したわけではありませんが、彼の残した肖像画は当時の型にはまらない独創的なものでした。
 
 今回は“ The May Blossom Painting Book”と“ Afternoon Tea ”をとりあげてみます。

 “ The May Blossom Painting Book”
  ( Frederick Warne and Co., 1881 )

  

 

  塗り絵の歴史がどれくらいのものなのか僕は知りません。
以前に、こども用の塗り絵はそれほど古いものでありませんが、花鳥風月画などの練習用としては宋代(960~1279年)あたりからあったようなことをうかがったことがあります。
いつか調べてみようと思ったものの、ものぐさな性格がいつものように邪魔をして未だに調べていません。
ですから起源については全くわかりませんが、19世紀末に多色刷石版による印刷がポピュラーになったこの時期に多くの「Painting Book」が発行されたのは知っています。
ウォルター・クレインやコルデコットも同時期に何冊かの Painting Book を出しています。

 

 
 

  すべての絵にというわけではありませんが、彩色済みの見本が綴じられています。それ以外は二色刷になっています。現在のものと構成はかわっていないと言うことですね。
現在と異なっているのは当時、多色刷石版による書籍が高価であったことです。少なくともすべての子供たちが手に取れるようなものではありませんでした。絵を描くのが好きな子供たちからみれば、憧れの一冊ということになります。
 

  今見ていると見本の石版画が非常に美しいです。贅沢というのはこういうことなのかとも思えます。塗り絵本というより画集として成立しています。
 彩色版画だけを切り取って額装すればインテリア絵画としても充分に通じます。もっとも僕は形になっているものを崩す趣味はないので、いくら古びてもこのまま保管しますけど。

 

 

 ここで多色刷石版画(クロモリトグラフ・Chromolithograph)について少し説明をしておきます。

 これは1798年にドイツで発明された版画技法です。
 石板上に油性チョークで絵を描いた後に、その版面を水に漬けると油性部分の線は水をはじきます。これに同じく油性塗料を塗ると線部分のみにインクが付着する性質を利用して、図柄を紙に転写するものです。
 この石版印刷により、画家が製版作業を直接に手がけることが可能となりました。そのことは、従来の銅版画や木版画のように彫版師にまかせるよりも原画の再現性が向上します。
 ルドゥーテなどの植物画の植物学的な正確さをより忠実に再現するのには非常に適していたのです。また木版画と異なり光沢のある画質が非常に鮮明で高級感を与えています。
 ただし、初期の石版画は色彩が強くですぎる傾向があり淡彩色には不向きな面がありました。しかし19世紀半ばに油性塗料の品質の向上により濃淡の再現性が広がり彩色本の中心となり、1850年~1900年頃に最盛期を迎えました。

 

  

 


 “ Afternoon Tea ”

 

 
 ( Frederick Warne and Co. 1880, London ) 

 

 「Afternoon Tea」は、 J.G. SowerbyとH.H. Emmerson の共著になっています。
 

 George Routledge and Sons社から発行されたグリーナウェイの「Under The Window」 「Marigold Gaerden」の反響は大きなものでした。
 そこで Frederick Warne社は、田園風景を得意とし、画風がグリーナウェイに近かったエマーソンに「ケイト風の絵をつけた本」の依頼をしました。
 この本は確かに販売部数を伸ばしました。ただし、それはあくまで「ケイト風(グリーナウェイ風)」に徹したことによるケイト・グリーナウェイの人気の再確認に他ならなかったのです。

 

 

 

  僕はひねくれ者ですので「売れているもの」に対して抵抗感が強く、「タイタニック」が上映している時も「人気のあるうちは絶対に見ない」と無意味に我を張った経験があります。
 この「Afternoon tea」も人気のあったグリーナウェイの模倣、二番煎じ的な本として嫌う面があり、あまり見直す機会がなかったのですが、今回、こうして手にとってみますと決してグリーナウェイに屈したものではないと思うようになりました。
 エマーソンの抒情性は画面のそこかしこに溢れていて、グリーナウェイには描けない暖かさに満ちています。

 

 


 彼はモチーフとして、一人病床で誕生日を過ごす子どもへのお見舞いや弟妹を寝かしつける姉などを幾度も取り上げています。
 寂しさを一番感じる時に温もりを与える視線こそがエマーソンが生涯忘れることなく伝えようとした心情なのだろうと思います。