Arthur Rackham (1867 - 1939 )

 1867年9月19日、ラッカムは12人兄弟の4番目として生まれました。1879年、ロンドン市内の学校に入学。1884年、療養のため一時、オーストラリアへ渡りますが、同年秋、再びロンドンへ戻り、ウェストミンスター火災保険会社で保険員として働きながらランベス美術学校で絵画の基礎を学びました。保険会社を退職したあと、1892年、創刊したばかりのウェストミンスター・ヴァジェット誌で挿絵を担当し、その後、彼の絵の才能を惜しんだ父親の勧めもあり画家として歩むことを決意します。そして1893年、A.ホープの「The Dolly Dialogues」で本格的な挿絵を担当し、市場に参入しました。
 1898年には「The Ingoldsby Legends, Or Mirth and Marvels 」(J.M. Dent & Co., London)でカラーイラスト(12枚)を描き注目を集め、1900年の「The Fairy tales of the Brothers Grimm 」(Freemantle & Co, London /Lippincott Co., Philadelphia)で画家としての地位を確立しました。
 

  「The Fairy tales of the Brothers Grimm 」(1900年)
 

  以後、「Peter Pan in Kensington Gardens」(1906年)、「Alice's Adventures in Wonderland」「The Ingoldsby Legends, Or Mirth and Marvels (New Edition) 」(1907年)、「A Midsummer-Night's Dream 」(1908年)、「Undine」(1909年)、「The Rhinegold and the Valkyrie」(1910年)、「Siegfried and The Twilight of the Gods」(1911年) などの名作を次々と世に送り出し、1939年9月6日、癌のためリンプスフィールドの自宅で死去しました。

 「ニーベルングの指輪」「真夏の夜の夢」「ケンジントン公園のピーター・パン」など何を取り上げようか迷ったあげく、今回はフケー原作「ウンディーネ」にしました。 

 “ UNDINE "(1909年)
  

 ( London : William Heinemann , New York, Doubleday, Page & Co, 1909 )

 「ウンディーネ」は、ドイツ・ロマン派の詩人であるフリードリヒ・バロン・ド・ラ・モット・フケー(1777-1843)が1811年に発表した水の精と騎士の悲恋をテーマにしたファンタジーです。
 フケーはドイツ軍人の家系に生まれ、彼自身も軍籍に身を置いたのちに作家活動に入りました。その著作は戯曲から小説まで多岐に渡りましたが、今日まで親しまれているのはわずかにこの「ウンディーネ」のみとなっています。
 

 

 

 

 

 精霊は魂を持たない心のみの存在であり、人間との間に真の愛が生じることによってその魂を授かります。「人間に愛されれば魂を授かるウンディーネ」については、近代医療の父とも言えるパラケルススが16世紀に記したその著作の中で超自然的な存在として触れています。それ以外にもドイツには古い伝説「シュタウフェンベルクの騎士」「ローレライ」をはじめ水の精にまつわる話が多く存在します。
 この物語はそういった伝説を総括したものと言えそうです。
 粗筋としては、魔の森の奥にすむ貧しい漁師に育てられた美しい(水の精)ウンディーネが、騎士フルトブラントと出会って恋におち、その愛によって魂を授かります。しかし、フルトブラントは元来が人間とは異なるウンディーネに対し次第に冷たくなり、他の女性を愛するようになり、ついにはウンディーネを捨ててその女性と結婚することになります。そのためウンディーネは水の精霊の掟に従い、騎士の命を奪うというものです。
 

  

 

 王子を愛し、その恋に破れて海の泡と消え、海を渡る風になって王子を見守るというアンデルセンの人魚姫とは悲劇としての共通点はあるものの、結果としては対極にある物語です。
フケーは物語前半においてはウンディーネを奔放で他人の心を気遣うことをしない我儘な精霊(妖精)的な性格を強調した描写をしています。騎士との婚礼によって魂を授かったのちは性格ががらりと変わり、慈悲深く遠慮深い淑女として彼女を扱い、理不尽に虐げられてもフルトブラントを献身的に愛し続け、「私はあの方を涙で殺しました」というエンディングに向けて読者に彼女の悲壮感を募らせる階段を用意していきます。
 そして、ラッカムの挿絵はラストの悲劇を終始暗示するかのように不安げに描かれています。

 

  

 

 この見事な挿絵を生みだしたのは、もちろんラッカムですが、彼自身だけでは挿絵として命を吹き込むことはできませんでした。彼の挿絵に我々を引き込むために最も貢献したのは印刷技術に他なりません。
 クレイン、グリーナウェイ、コルデコットのような木版画や石版画、グリゼ、クルックシャンクのような銅版画では、いかに彩色技術を駆使しようともラッカムの世界は表現できなかったでしょう。
 ラッカムの登場は四色平版印刷、いわゆるオフセット印刷の華々しい登場とともにあったのです。
 

  

 

 当時のオフセット印刷は製本にも大きな影響を与えました。それは挿絵の別刷りと言う形で現れます。
 つまり挿絵を光沢のあるアート紙に印刷し、台紙に貼り込み(マウント)をして製本しました。したがって台紙が挿入できない初期の小型本のピーター・ラビット・シリーズなどの挿絵の裏は白紙のまま綴じこまれたのです。大型本に関しては、上面だけを糊付けしたものや枠通りにカッティングして全面を貼り付けたものなど装丁によって貼り方の差異はあります。
 この「ウンディーネ」の挿絵についても台紙の枠取りがされており、その枠の中に上方だけ糊付けした挿絵が貼り込まれています。

 

 

 

 水彩画の質感を損なうことなく再現できるオフセット印刷の登場は挿絵の世界に革新をもたらし、カイ・ニールセン、エドマン・デュラック、ハリー・クラークなど数えきれないアーティストを生み出す土壌となりました。19世紀末の挿絵と20世紀初頭の挿絵との最大の分岐点がここに現れたのです。

ラッカムの挿絵を利用した「ウンディーネ」の翻訳本をご紹介しておきます。

 

  美しき水の精」(三笠書房、1965年初版)

 

 三笠書房刊は、「ウンディーネ」の初邦訳を手掛けた矢崎源九郎さんが改めて翻訳をしています。前半(田舎娘的)と後半(貴婦人的)でウンディーネの言葉づかいを使い分け、その性格の変化をわかりやすくしています。挿絵はカラー口絵を一枚、それ以外は白黒で掲載されています。

 

  「ウンディーネ」(新書館、1980年初版)

 

  新書館のペーパームーン叢書でおなじみの岸田理生さんが翻訳を担当し、15枚の挿絵を前後半に分けて、巻頭、中間にカラーで綴じこんでいます。挿絵の裏には原本についていた各挿絵カバーのキャプションを再現しています。

 ところで、漫画やアニメ、ファンタジーの中では、人間と精霊(或いは、妖精、宇宙人、アンドロイドなどなど)との恋愛が成立するパターンは多いですが、現実にそういったシュチュエイションが存在したらどうなのでしょう?彼女(彼)を愛せますか?人はやはり人しか愛せないのでしょうか?他の異質な存在とは一時的な恋愛しか成立しないのでしょうか?
 もっとも同じ人間同士でも永遠の愛などとは行かないでしょうから結果は同じことなのかもしれませんね。違う点があるとしたら、誤魔化して耐え続けることができるか否かなのでしょう。

 物語はこうして締めくくられています。

… 埋葬を終え、みんなが再び立ちあがった時には女の姿は消えていた。女の跪いていたところには銀色の明るい水を湛えた小さな泉が湧き、それは静かに流れ出て騎士の墓をぐるりと回り、更に流れ流れて墓地の先にある小さな池に注ぎ込んでいた。村人たちはこの泉を指して、哀れなウンディーネが捨てられながらもこうしていつまでも涸れることなく優しい腕に恋人を抱きしめているのだと信じたという。


 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

  アルフォンス・マリア・ミュシャによるアナトール・フランスの「クリオ」の挿絵をとりあげます。あまりにも有名なのでどうしようかとも思っていたのですが、そういえばフランスの本は取り上げてなかったなと言うのと、ちょっと気が向いたので。
 

  

 (CALMANN LEVY,EDTEUR. 3,RUE AUBEE,3 1900)

 収録作品は「キメの歌うたい」「アトレバテスのコム」「ファリナータ・デリ・ウベルティ、或いは、内乱」「王は飲む」「ムイロン号」の5作品です。
 現在、翻訳版のミュシャの挿絵による「クリオ」は発行されていません。物語自体はアナトール・フランスのコントに含まれていますので読むだけでしたら、短篇集、或いは、コント集を探したほうが良いようです。手に入れやすいものとしては白水社「アナトール・フランス小説集第10巻」があります。ただしミュシャの挿絵は含まれていません。

 

 

 

  初版は1900年にCALMANN LEVYから刊行。装丁は、皮張りの表紙にマーブルを模したリトグラフを施し、各ページは和紙(Japon)に印刷されています。多色刷リトグラフによる挿絵が口絵を含み13枚です。目次は巻末に付されています。
書籍の題である「クリオ」は、ギリシャ神話に出てくるゼウスとムネーモシュネーの娘であり、文芸の女神九柱のうちの歴史をつかさどる女神クレイオーのことです(他の八柱は、カリオペー、エウテルペー、タレイア、メルポメネー、テルプシコラー、エラトー、ポリュムニアー、ウーラニアー)。それを受けて表題の序に「クリオの加護の下に」とあり、収録されている物語は歴史と英雄譚に関わっています。
 

  

 口絵、「キメの歌うたい」

 「キメの歌うたい」の2枚目の挿絵は一般に言われるミュシャらしさが出ています。歌うたいの老人が食事を済ませて泉へやってきて若い娘に出会う場面です。

 …ひとりの若い娘が頭の上に籠をひとつのせて、下着を洗いに泉のところへやってきた。娘ははじめ老人を胡散臭げに見た。しかし彼が木の琴を破れた上着の上に提げていて、老人であり、疲れ切っているのを見るや、恐るることなく近寄ってきた。そして突然に憐憫の情と尊敬の念とに打たれて、併せた二つの掌のうちに水を僅かばかりに汲み上げて、それで歌うたいの唇を潤してやった。…

 

  

 「アトレバテスのコム」

 この本の中で最も長い物語となります。長いといっても全六章、翻訳で43頁なのですが、疲れました。何度、休憩したかわかりません。時にはまる1日放って別の小説を読んだりしていました。フランス語の読めない僕にはアナトール・フランスの物語自体が僕に合わないのか、それとも翻訳が合わないのかは、如何とも判断しかねますが、本音を言えばあまり面白いとは思えませんでした。

 アトレバテスのコム(コミウス)はカエサルが制圧したガリア人部族のうちのアトレバテス族の王であり、ガリア及びブリタンニアで王位を継承した人物です。
 ローマと同盟を結び統治にあたっていたコムですが、彼の暗殺を企てたカイウス・ヴォエルゼウス・クアドラトゥスに襲われ部下を失い、彼自身も深手を負います。その恨みからマルクス・アウレリウスと激しく敵対します。最後には敗れたとはいえ悔いない戦いをしたことから和睦を申し入れ、ローマに対する忠誠と人質を差し出すことになります。
 

  

 「ファリナータ・デリ・ウベルティ、或いは、内乱」

 エンポリの駅を過ぎてレオナルド・ダ・ヴィンチ通りを北へ向かうとファリナータ・デリ・ウベルティの名を冠した広場にでます。
 ファリナータ・デリ・ウベルティは13世紀に実在したフィレンツェ・ギッベリーニ党の党首で、1248年グェルフィ党をフィレンツェより放逐しましたが、市民の反感にあいギッベリーニ党と共に郷土を追われます。1260年、シエナの王・マンフレッドの助力を得てモンタペルティの戦いで、再度、グェルフィ党を破りフィレンツェに帰還しました。
 物語は、帰還したファリナータが塔より市内を望み、フィレンツェを守るために犠牲を顧みずに戦った自分がなぜこうも人々に恨まれねばならないのかと、修道士のフラ・アンブロジオに打ち明けるという二人の会話で進行していきます。

 彼の評価に関しては様々あります。
 彼の死後、グェルフィ党が復権し墓を暴かれ異端の罪で遺体は火刑に処されてもいます。またダンテの神曲「地獄第十曲」にもファリナータ・デリ・ウベルティは地獄を恐れぬ者として登場しています。

 …彼は胸と額をもたげ起こして、あたかもいたく地獄を嘲るに似たりき…(地獄 第十曲)

 先の広場の名前は、モンタペルティの戦いの後にエンポリで開かれたギッベリーニ党会議においてフィレンツェの完全破壊が優位を占める中、彼が破壊反対の弁舌を奮い、これを阻止し街を救ったことから英雄として名がつけられました。
 どのような評価がくだったにしてもファリナータ・デリ・ウベルティがフィレンツェを救ったことは事実です。
 

 

  「王は飲む」

 僕にはわかりにくい物語でした。読み込んでいないせいもあります。短い物語なのですが一度読んだだけでもう充分という感じです。合わなかったんですね、たぶん。

 「王は飲む」とはトロイアの王の宴席における作法ですべての列席者はこの言葉を唱えて王を讃えねばなりません。挿絵2はその作法を破った小ピエロレを告発し取り押さえようとし、小ピエロレが短剣を抜いてそれに抵抗している場面です。
 ピエロレは逃亡に成功し追っ手を逃れ失踪します。その後にジャンヌ・ダルクの旗下の兵士として活躍し、騎士に昇進します。

 

 

 「ムイロン号」

 1805年、ネルソン率いるイギリス艦隊にトラファルガーの海戦で破れた後のナポレオン・ボナパルトの物語です。
 ムイロン号とは、身を挺して司令官を守ったナポレオンの幕僚の名を戴いたフリゲート艦です。ナポレオンはこの艦にその忠心と勝利の奇跡を重ねていました。
 物語は遠征に迷いを抱く下士官のラヴァレットとナポレオンの会話を主体にしています。
 ナポレオンは信念と歴史を踏まえ「人間の一生とは何か?」とラヴァレットに問い、それは「一発の弾丸」だと言い切るのです。

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 “ Aesop's Fables ” (1848年)

  

 (John Murray, London 1848)

 

  「テニエルの挿絵があれば載せて欲しい」、「鏡の国が見たい」とか、「アリス以外のもので何かあれば」と言うテニエル絡みのご希望をいただきましたので、彼の初期の挿絵本である1848年に発刊された「イソップ寓話」をご紹介します。
出版は John Murray 社で、テニエルが挿絵を施した版は“ New Edition ”となっています。挿絵は全部数えたことはないのですが110枚ほどだと思います(挿絵の目次がありますので数えればいいだけの話ですけど)。すべて黒のペンで描かれ、銅版(エッチング)で印刷されています。

最初の物語は「狐と葡萄」です。非常に短い話なのですが身につまされることしきりの心に痛い話かもしれません。ご存知の方が大多数だと思いますが、明治40年発行の合本版「新訳伊蘇普物語」(玄黄社、鐘美堂書店)から上田萬年の翻訳でご紹介しておきます。

「空腹になった狐が、ふと葡萄畑を通りかかり、鈴なりに熟した葡萄を見て、幾度となく飛びあがって取ろうとしましたが、高くて達(とど)かず、憊れるばかりで、一粒も口へは入りませんでした。そこで狐は業を煮やし、「何だ、こんな青い酸っぱい葡萄を誰が食うものか。」

 

 

 

 

 この物語の教訓は「高望みをするな」と言うことです。
ルイ18世統治下のフランスにおいて外相として活躍したシャルル=モーリス・ド・タレーランは「言語は思想を隠すために人間に供された」と言っていますが、ある意味においてそれは的を得ています。
人は失敗や照れ隠しのために心にもないことやその場しのぎの理由づけなどで逃避しようとします。
たとえば誰かに自分勝手に期待を寄せておいて、それが思い通りにならなかった時にその相手に悪口をついたり、実力もなく努力もせずに高望みをしておいて、それが無理だとわかると「やればできるんだけどね、もう飽きた」などと言ったりもします。
挙句には人の不幸を願ったりしてしまうことすらあります。たとえば、ある中華屋で嫌な思いをして「こんな店に二度と来るもんか!潰れてしまえ!」などと。
自分の矮小さ、卑屈さに気付くと自己嫌悪に陥りやるせなくなったりもします。でも、「それも人間」と開きなおることも必要なのかもしれません。だって、上の物語の狐は葡萄を取るために飛んだり跳ねたり一生懸命に、それこそヘトヘトになるまで頑張ったかもしれません。その努力を誰かが認めてあげるというのも大事だと思うのです。
 

  

 

 話がそれました。テニエルの話をしましょう。
テニエルは1820年にロンドンで生まれました。彼の母親はダンスの教師、父親はフェンシングの教官をしていました。テニエルは20歳の時、その父との練習試合で右目に剣が刺さり失明するという事故にあっています。
彼は早くから美術を志し王立美術学校とクリップストーン・アート・ソサエティで基礎を学んでいます。1836年に英国美術協会に認められ初めて公の場において彼の油彩画が展示されました。
 1943年、ジョン・リーチの薦めでディケンズの“Christmas Books”(Chapman & Hall. Bradbury & Evans)のフロントピースの絵を描いています。
さらに1845年にはウェストミンスター貴族院の「詩人の間」にあるジョン・ドライデンの詩「聖セシリア」のフレスコ画を制作しました。

 

  

 

 テニエルは美術の基礎を学校で学びましたがイラストや漫画、諷刺画については独力で学び、特に動物や植物のデッサンに励みました。その努力はダグラス・ジェロイドの目にとまり、イソップ寓話の挿絵を描く話が舞い込んできます。彼はそれを見事にものにして1948年にJohn Murray社から“ Aesop's Fables ”として刊行されました。この年、ディケンズの“The Haunted Man”の挿絵も手掛けています。
 1850年、パンチ誌を主催していたマーク・レモンからカトリック問題の対立で職を去ったリチャード・ドイルの後任として勧誘され、活躍の場を移しました。ずっと後のことになりますが、彼はそこでビスマルクの辞任にまつわるドイツのオットー首相を題材とした風刺漫画“Dropping the Pilot ”(1891)を描き好評を得ることになります。

 

  

 

  パンチ誌での彼の絵はルイス・キャロルの目に留まり1866年「不思議の国のアリス」、1870年「鏡の国のアリス」と世界的なヒットを飛ばし、ジョン・テニエルの名を歴史に残したことは周知の事実です。
1893年、英国王室より“ Sir ”の称号を授与されました。ルイス・キャロルと袂を分かった後も1901年に職を辞すまでパンチ誌で漫画を描き続けました。そして、1914年2月25日に亡くなっています。
 

  

 

  この「イソップ寓話」の終章の物語は「粉屋と息子と驢馬」です。本書中、最も頁が費やされているものですが、これは本来「イソップ寓話」には含まれていず、先にご紹介した「新訳伊蘇普物語」を編纂した国文学者の上田萬年はこれを同書から外しています。簡単に粗筋をあげておきます。

 粉屋の親子がが隣町の市で驢馬を売るために驢馬を引いて歩いていた折、井戸端会議をしているおかみさん連中に出合い 、その驢馬連れの姿を揶揄されました。
 「ねえ、あの人たちは驢馬に乗らずに歩いているよ。何のための驢馬なのかね。おかしいったらありゃしない。」
 粉屋はそれを聞いて息子を驢馬に乗せました。
 それからまたしばらく行くと、今度は老人たちが世の流れについて議論しているところへやってきました。
 「あれを見なさい。わしの言うとおりじゃろう。最近は年寄りに敬意を払わず、若者が我先に楽をする世の中なのだ。年老いた父親を歩かせておいて、息子は驢馬に乗って怠けておる。」
 それを聞いて今度は父親は息子を驢馬から下ろすと自分が驢馬に乗りました。またしばらく行くと彼らは母親と子供たちの集団に会いました。
 「可哀想に小さな息子は足を痛める思いをして歩いて行っているというのに、よく父親はすまし顔で驢馬に乗っている。なんて親なんだろう!」
 父親はそれを聞いて息子を自分の後ろに乗せて町へと入って行きました。 すると一人の男が近づいて話しかけてきました。
 「これはあなた方の驢馬ですか?」
 「そうです。大事な私の驢馬です。」
 「だとしたら、なぜ、あなたは驢馬をいじめるのですか?驢馬が大切ならば、自分たちで驢馬を運んだ方がよいのに。」
 そう言われて粉屋の親子は驢馬から下りると、驢馬の脚を太い木の棒に括り付け肩に担いで橋までを運んで行きました。このおかしな親子を一目見ようと人だかりができ、集まった人々は腹をかかえて笑いました。
 驢馬は周囲の大きな笑い声に興奮して、縛っている縄から逃げようと暴れた結果、縄が切れて川に落ちて溺れ死んでしまいました。

 全ての人の期待に応えようとした結果、大切なものを失うという愚行を諭した物語です。周囲の期待の全てに応えるなど土台無理なことなのです。自分らしい価値観と自己貫徹の意志への教訓です。

 

 

 

 最後に“Good Words”の挿絵を一枚ご紹介します。「鏡の国のアリス」はまた別の機会にします。
テニエルはここで“ The Way in the Wood ”と言う短編の挿絵を描いています。

“ Good Words ” (1864年)

 

 (Individually published issue 1864)

 “ Good Words ”は個人誌として発行された50頁ほどの薄い冊子です。広告と読み切りの短編小説主体に編集されています。挿絵はすべて銅版画で、広告のカットを含めれば膨大な数が入っていますが、著名な挿絵画家としてはテニエル以外ではロバート・バーンズ他数名程度です。バーンズの挿絵は残っている作品がわりと少なく、ちょっと珍しいので2枚ですが載せておきます。

 

 

 

 Illustration by Robert Barnes (1840~1893)

 ついでにアーサー・ラッカムのイソップも載せておきます。
 初版は1912年、挿絵はフルカラー13枚、セピアが53カット収録されています。初版を手にいれるのは少し難しいですが、ラッカムの絵を目的とするだけなら洋書としては現在も販売されていますので入手はしやすいです。