"The Bad Mrs Ginger" (Grant Richards, UK,1902)

 オナー・シャーロット・アップルトンは、1879年2月4日にブライトンで生まれました。
 彼女はケンジントン・スクールで美術の基礎を学びました。その後、フランク・カルデロンの動物画スクールで生き物の描き方を学び、最後にロイヤル・カレッジ・オブ・アートで水彩と油彩の技法を習得しました。

 

 


 ロイヤル・カレッジ・オブ・アートにまだ在学中だった1902年、彼女はオリジナルの絵本である「Bad Mrs Ginger」を発表しています。

 

     

 

 

 "The Bad Mrs Ginger"(Grant Richards, UK, 1902)

 それは、獰猛で狡猾な猫のミセス・ジンジャーから小動物を助け出すために苦心する背丈6インチしかないこびとの女の子アンの話です。
 小さなアンは、ミセス・ジンジャーに狙われた友人である小さな動物たち(ネズミや小鳥など)を逃がしたために彼女に追い詰められます。しかし、その危機一髪のところを妖精に助けられてフェアリー・ランドに迎え入れられると言う単純なストーリーの幼児向けの絵本でした。
 この本の出版を皮切りにして、以後、彼女は150冊以上の絵本を世に送り出すことになります。

 

  "Babies Three "  "Josephine and Her Dolls "

 

代表作としては、「Fairy Tales」(Simpkin Marshall, UK, 1913)、「Children in Verse」(Duckworth & Co,1913)、「Fairy Tales(H.C.Andersen)」((Thomas Nelson, London,1920)、「Josephine and Her Dolls 」(Blackie & Son London,1916 )などの“JOSEPHINE” シリーズ、「Babies Three 」(Thomas Nelson, London,1921)などがあります。

 

“THE BLUE BABY and other whimsical stories”

  (London George Harrap & Co. Ltd,1931)
 

1952年、イースト・サセックスにあるホーブ公立図書館においてロイヤル・カレッジ・オブ・アート収蔵の彼女の作品による個展が開催されることになりましたが、アップルトンはその個展を見ることなく開催直前に逝去しました。

  “ The Snow Queen ”(1920年頃)

  

(Thomas Nelson and Sons, London, Edinburgh, and New York)

 多作家であった彼女の絵本の中から、1920年頃に刊行された「The Snow Queen」を取り上げます。
 本文は子供向けシェークスピアなどを手掛けたローウィ・クリスホルムが再話しており、アップルトンが非常に繊細な挿絵を施しています。

 

  

 

Thomas Nelson社の書籍については刊記が表記されていませんので正確な発行年月日は不明です。ただ原画自体は1918年に描かれていることはわかっており、1920年に入ってからすぐに発刊されているようです。
他にもう少し情報はないかと思いロンドンの老舗古書店の店主に問い合わせたところ、「初版以後の増刷されたという記録は見あたら無いようなので、おそらく初版のみの発行だったのではないかと思う」とのことでした。
ほぼ同時期に同社から発行されたアンデルセン童話集「Fairy Tales」の方が人気があったため、そちらの陰に埋もれてしまったのかもしれません(こちらは何度も復刻再版されています)。
しかしながら、北の地の空気感までを捕らえたかのような繊細で優雅な挿絵は、埋もれさせておくには非常にもったいないと思って取り出してきました。

 

  

 

アップルトンは水彩を主として扱い、その絵本は子供たちが純真に遊ぶ姿や冒険、そして生命や物の大切さといったものをテーマにしていました。
彼女の初期の絵にはケイト・グリーナウェイやウォルター・クレインの影響(特にグリーナウェイ)が顕著に見られます。1920年代後半以後の作品には、色彩やスペースの使い方、柔らかく細やかな線による表現にアーサー・ラッカムやチャールズ&ウィリアム・H・ロビンソンの影響が見られます。
アップルトンの挿絵(彩色画、ドローイング)は、一冊の本の中にもその他の著名な画家の構図や技法を随時取り入れ変化に富んだ世界を作り上げています。そこから彼女が非常に柔軟な考えの持ち主だったことが想像できます。

 

  
 

彼女の繊細な水彩画は息の長い人気を保っており、昨年(2010年)は「アンデルセン童話集(Fairy Tales by Hans Christian Andersen )」が、2011年に入ってから「ペロー童話集(Perrault's Fairy Tales )」が Pook Press社からニューエディションのハードカバーで発刊されています。残念ながら日本語翻訳版は発行されていないようです。
 

 

 

(Privately Published / Printed By Strangeways, London, 1902)

 

「ピーター・ラビット」であまりにも有名なイギリスの児童文学者であり、ナショナル・トラストの創設に貢献したヘレン・ビアトリクス・ポターは、1866年7月28日、サウスケンジントンで生まれました。

  

  

 
彼女の両親であるルパート・W・ポター(陶芸家、弁護士)、ヘレン・ポターはともに裕福な家庭に育ち、その両家の資産で生活をしていました。ビアトリクスも当時の富裕層の子女と同じく傍付きのメイド(ナース)とカヴァネスと呼ばれる専任の家庭教師によって育てられました。
彼女が作品を生み出したイマジネーションには、毎夏を過ごしたパースシア、スコットランド、ウィンダミアなどの避暑地での生活が大きく関わっています。彼女はそこで小動物を観察するとともに、植生に関する探究心を呼び起こされました。特にあげられるのは地衣類が菌類と藻類の共生関係にあることを発見したことであり、それについての論文も書きました。しかし、当時、生物学界の頂点にあったリンネ協会(カール・フォン・リンネの功績を讃えて設立され、アルフレッド・ウォレスやダーウィンが所属していたことでも知られる)は女性の進出を認めず、ビアトリクスの論文は正式に採用されることもなく黙殺されることになります(1997年のリンネ協会の総会においてビアトリクスに対して正式に謝罪を表明)。また英国国立植物園(キューガーデン)への推薦を受けたこともありますが、やはり女性であったため採用されることはありませんでした。

 

“ The Tailor of Gloucester ” 

  
 (Privately Published / Printed By Strangeways, London, 1902)
 

1900年前後から子ウサギ(ビアトリクスのペットであった)を主人公とした物語を書き始め、周囲からは出版を勧められ請負先を探しますが見つからず、初期の作品は自費(privately issue)で発表されることになります。ですが彼女の生み出した子ウサギの物語は年齢を問わず世界中の人々から支持され、1902年「ピーター・ラビットのおはなし」から1930年に発表された最後の本である「こぶたのロビンソンのおはなし」まで23作が刊行され、今日まで愛読されています。

 

  

(London and New York, Frederick Warne and Co., 1903) 

 

晩年、イギリスの湖水地方で牧羊場を経営していた彼女は、自然保護活動の重要さを提唱していた牧師・キヤノン・ハードウィックの影響を受け、地元の土地4000エーカー(16km²)を買い、その管理をキヤノン・ハードウィックとその後継者に託しました。これがナショナル・トラスト運動の第一歩となります。
ビアトリクスが所有していた土地は、現在、湖水地方の国立公園(ウィンダミア)の一部になっています。また彼女が晩年に生活していた自宅は「ヒル・トップ」と名づけられて一般に公開されています。
執筆活動と自然保護活動に尽力したビアトリクス・ポターは1943年12月22日、ランカシャー州ニア・ソーリー(現在のカンブリア州)で永眠しました。

 

  

 

“My Dear Freda Because you are found of fairy tales, and have been ill, I have made you a story all for yourself - a new one that nobody has read before.”で始まる「グロースターの仕立て屋」。
その最初の出版はビアトリクス・ポターの個人出版でした。1902年に発刊されたそれは500部限定であり、ピンクのダスト・ジャケットがついていました。そしてその翌年、1903年にFrederick Warne 社から正式に刊行されます。

 

  

 

 
 

グロースターに住む貧しい仕立て屋はクリスマスの朝までに市長が結婚式で着る典礼用のコートを作らなければなりませんでした。しかし、連日の疲れからうたた寝をして風邪をひいて寝込んでしまいます。病気から快復したときには既にクリスマス当日、「もう到底間に合うわけがない」と諦めて仕事場に来てみると、どうしたことか見事な刺繍が施されたコートが出来上がっていました。たったひとつのボタン・ポールのかがりを除いては。そしてそこには針で小さなメモ紙が留めてありました。そのメモには「穴糸が足りない」と書かれてありました。
その見事なコートは、日ごろから仕立て屋の家に住まわせてもらい、猫のシンプキンから助けてもらったネズミ達の恩返しだったのです。

 

   

 

ビアトリクス・ポターは、グロースター郊外に住んでいた従妹キャロライン・ハットンを訪ねた折、そこで不思議な話を彼女から聞きます。それがこの絵本の物語の元になりました。
それは「仕立て屋が急ぎの仕事を受けたものの病気で伏せって、期日であるクリスマスまでに仕上げることができなかったのです。ところがクリスマス朝に仕事場に来てみるとボタンホール一つを除いて見事に仕上がっていました」と言うものでした。ビアトリクスはこれをネズミの仕業と想像し、この物語を書きあげました。

 

 

 

グロースターはイングランド・グロースターシャーの州都であり、セント・ピーター修道院(グロースター大聖堂、Cathedral Church of St Peter and the Holy and Undivided Trinity)を中心とした街です。その街の名前の由来である「輝く川の上の砦」が示す通りに、川による商業交易で栄えたところでした。グロースターからやや東に向かうとコッツウォルズがあります。

 

   

 

僕がこの街を訪れたのは20年以上も前のことになります。現在はどういう風に変わっているのかわかりませんが、その頃の街並みはビアトリクスが描いた挿絵そのままの風情を残していました。小さな横道にそれて路地裏に入り込むと「あの仕立て屋」を探してしまうくらい時間の動きを忘れさせてくれる場所でした。

 

   

 

 猫のシンプキンがネズミに締め出されて雪の街を仕方なくうろつく様を想像して、「あの二階家のベランダがちょっと似ている」とか、飲み屋の裏にある地下倉を覗き込んでは酔っ払いネズミの大宴会の醜態を思い浮かべたりしました。
ついでに「24人の仕立て屋さん、カタツムリを捕まえに。角だしゃ怖いぞ、カタツムリ。仕立て屋さん、みんな逃げ出したよ…」なんて歌いながら店先の小さなウィンドウを覗き込めば、刺繍に精を出すネズミの姿が見えそうな、本当にそんな街でした。

 

   
 

ビアトリクス・ポターの描く世界は非常に独特なものです。ただ単に動物を擬人化するのではなく、彼らは彼等の世界で生きています。人が入り込む時はそれは異次元の扉、幻想の世界のごとく、夢うつつの狭間のように描かれます。そうたとえばティギー・ウィンクルに出会ったルーシーのように。
余談ですが「ティギーおばさんのおはなし」に登場する洗濯屋のティギー・ウィンクルにもスコットランドに住んでいたキティ・マクドナルドという実際の人物のモデルがいます。

 

   
 

今回はクリスマスが近いのでそれに因んでというのもありますが、それとは別に、頑張っている人への応援の気持ちを込めて取り上げてみました。
実は僕は自分が文章を書くよりも誰かが書いたものを読むほうが圧倒的に好きです。ここ最近はあるブログで連載されている小説を読んでいます。書いている方は学生さんなのでしょう。アルバイトに卒業論文、いろいろと忙しい中で書かれているようです。寒気が降りてくる中、無理をして体調を崩さないようにしてくださいと祈るばかりです。

 

 

 

今年はいろいろなことがあり過ぎました。
日々の生活では嬉しいことよりも嫌なことのことが多い気がしたり、良いことや幸運は努力してもなかなかやってきてはくれませんが、不運や悲しいことは何もしなくても向こうから近づいてくる気がします。でも、努力をした人はやはりそれなりの幸せをつかむものなのです。ただかなえられた望みや夢といったものは、見落としてしまいがちに小さかったりするものですから、気づかずに通り過ぎてしまうのです。けれども、それがどんなに小さくても願いは確かにかなっているのです。
現実では土壇場でネズミさんが手助けをしてくれたり、眠っている間にこびとさんがあらわれて代わりに仕事をしてはくれませんが、すべては自分の心が知っていてくれます。ですから、深刻にならず、肩ひじを張らず、できることをその瞬間に精一杯やりましょう。後悔が小さくすむように。

それでは素敵なクリスマスをお迎えください。
 

 

 

 “ The Fairy Book ” (1913年)
  ( Illustrated by Warwick Goble )

  

 (Macmillan & Co.,Limited St.Martin's Street,London 1913)

 ワーウィック・ゴーブル(1862 - 1943)は、1890年代から1900年代初頭にかけて活躍した画家の中で、特筆すべき広範な分野で挿絵を手がけた画家です。その洗練されたデザインと流麗なダンスやバレエを思わせる動きをとらえた挿絵は、今日でも最高峰の作品群のうちに挙げられています。彼が残した「The Water Babies」(1909)、「Green Willow, and Other Japanese Fairy Tales」(1910)、「The Fairy Book」はその足跡を代表する作品です。
 「The Water Babies」と「Green Willow, and Other Japanese Fairy Tales」は後日改めてご紹介することにして、1913年に刊行された「The Fairy Book 」を取り上げます。
 初版は1913年に発行されました。1923年には表紙の装丁を赤のクロス張りに変え、挿絵を16枚に減らして再版されています。

 

  

 

 初版に綴じこまれている挿絵は口絵(赤ずきん)を含めて32枚です。収録されている童話1話ごとに1枚の挿絵となっています。各挿絵には薄い保護紙があり、そこにはその描かれている場面に対するキャプションが付されています。
 

  "The Sleeping Beauty in the Wood"

 上の絵には、"A young girl of wonderful beauty lay asleep on a embroidered bed"(この世のものとは思えない美しい少女が飾り付けられたベッドで眠っていました)と言うキャプションが添えられています。

 

  

 

  ゴーブルは日本やインドの美術、文化に早くから興味を持ち研究をしていました。従ってその挿絵もそれまでの一般的な挿絵のようにヨーロッパ的ではなく、どことなく東洋趣味が感じられるエキゾチックな雰囲気を持っているところに特徴があり、彼自身も積極的にそういった題材を扱っていました。ほぼ同時期か、やや遅れて登場するアーサー・ラッカムやエドマン・デユラックはゴーブルの影響を多分に受けています。
 

  

 

 ワーウィック・ゴーブルは1862年10月22日、ロンドン北部のダルストンで生まれました。彼の父親は地方回りのセールスマンでした。
 ゴーブルはシティ・オブ・ロンドン・スクールに通う傍ら、ウエストミンスター・スクール・オブ・アートで美術を学びました。卒業後、彼は多色刷石版画を専門としている印刷会社に勤めます。そこで基本的な版画技法と商業デザインを実践において修得し、1890年代に入ってからはポール・モール・ガゼット、ウエストミンスター・ガゼットの発行に携わります。
 1893年、彼はハーフ・トーンのイラストをいくつかの月刊誌(ストランド・マガジン、ピアソンズ・マガジン、ボーイズ・オウン・ペーパーなど)に掲載しました。1896年にはロイヤル・アカデミーで開かれた展覧会に作品を出展しています。彼はそれを契機にして挿絵本の依頼を受けるようになります。1898年、 H・G・ウェルズの「宇宙戦争」の初めての挿絵本を手掛け、挿絵画家として好評を得ました。
 

  

 

  1909年にはマクミラン社が発行するギフト・ブックの主任画家となり、「The Water Babies」(1909)、「Green Willow, and Other Japanese Fairy Tales」(1910))、「Stories from the Pentamerone」(1911)、「The Complete Poetical Works of Geoffrey Chaucer」(1912)などの挿絵を製作しました。
 出版業界が一時停滞していた第一次世界大戦中、彼はウルリッチ・アーセナル・ドローイング・オフィスに雇われ、フランスで赤十字を支援するヴォランティアにも志願しています。またこの時期、彼はニューヨーク・マクミラン社の要請を受けて、スティーブンソンの「宝島」の発行にも協力していました。
 20世紀初頭の挿絵画家の中で最も器用な画風を持ち、広範な仕事をこなしたゴーブルでしたが、1943年1月22日、自宅であるサリー・ホームで80歳の生涯を閉じました。