カイ・ニールセンは1886年3月12日にデンマークのコペンハーゲンで生まれました。
 彼の父(Martinius Nielsen)は古典劇の俳優を経てロイヤル・デンマーク劇場の演出家を務めました。また母(Oda Larssen)は女優であり、歌にも優れていました。そういった関係で彼の家には、作家のビョルンスティエルネ・ビョルンセンやヘンリック・イプセン、音楽家のエドヴァルド・ハーゲルップ・グリーグ などが始終出入りし芸術論を闘わせたり、劇の打ち合わせなどをしていました。
 カイはこうした環境の中で舞台美術、絵画に惹かれ18歳になった頃、パリへ渡りモンパルナス・スークールで美術を専攻します。そこで彼は、オーブリー・ビアズリーの無彩色による表現と葛飾北斎、安藤広重などの日本絵画に出会い、啓蒙を受けます。そのデフォルメの芸術は彼の終生にわたる芸術的傾向を決定づけることになりました。それから忘れてはならないのが、その頃、パリで流行していたロシア・バレエです。優美なその動きはカイの描く鋭い線によって画面に取り入れられて行きました。

 1904年からアカデミー・ジュリアン、アカデミー・コラロッシで学んだ後、1911年にイギリスへ渡り、1916年までをロンドンで過ごします。
 1911年、ロンドンのドーゼセル・ギャラリーで「The Book of Death」と冠した最初の個展を開きました。この時の作品はビアズリーに倣った無彩色で単純化された構図によるものでした。この個展は好評を博し、彼の名は巷に知られるようになります。しかしながらこの個展での作品は書籍として刊行されずに終わります。
 1913年11月にはレイチェスター・ギャラリーで「In Powder and Crinoline 」と題した個展を開催しました。この時の作品は同じ年にHodder and Stoughton社から絵本として発刊されますが印税契約を結ばなかった為、出版社からは全く金銭の支払いを受けることができませんでした。そこで彼は原画を売却して生計に充てることを強いられます。同年、The Illustrated London News誌からの依頼で「Sleeping Beauty」「 Puss in Boots」「Cinderella」「Bluebeard」の4枚の絵を描き、クリスマス・エディションとして発売されました。

 

   

 “ In Powder and Crinoline ”(Hodder and Stoughton,London 1913)

 

 その翌年、1914年、Hodder and Stoughton社からノルウェイの民話を集めた「East of The Sun and West of The Moon」が発行されました。この本は話題となり、たちまちに増刷に次ぐ増刷を重ねました。以後、彼は「Hans Andersen's Fairy Tales」、「Hansel and Gretel」、「Red Magic」などの作品を送り出しました。

 

  

 “ East of The Sun and West of The Moon ” (Hodder and Stoughton,London,1914)

 

 カイは劇場人であった両親の影響もあり、舞台装置(美術)に関してもその才能を発揮しました。1919年「アラジン」、1922年ファエル・サルヴァチニの「スカラムーシュ」など優れた仕事を残しています(1938年にはハリウッド・ボールでの「エブリマン」も手がけています)。
 この舞台美術での成果は彼をウォルト・ディズニーに引き合わせ、ディズニーの作品作りに関わらせることになります(彼のその一端は「ファンタジア」中の「アヴェ・マリア」、「禿山の一夜」に垣間見られます)。しかし、当時のディズニーに関わるということは「すべてはディズニーとともにあり、すべてはディズニーのために」の言葉通りに、自分を捨てて献身することと同義でした。ディズニーの商業ペースに馴染めなかった彼は退社することになります。

 

 

 “ Hansel and Gretel ”(London Hodder & Stoughton, 1925)

 

 ディズニーを去った後、デンマークに帰国しますが、その時にはすでにカイは過去の画家となっており、忘れ去られ、挿絵の仕事すら見つけることも叶いませんでした。1926年、Ulla Pless-Schmidtと結婚し、再び、カリフォルニアへ渡ります。しかし、そこでの生活は極貧ともいえる厳しいものでした。その厳しい中にあっても彼は優れた絵画を収集し、芸術活動を休むことなく、エマーソン・ジュニア・ハイ・スクールなどで4つの壁画(Central Junior High School,Los Angeles 、First Congregational Churchなど)を制作しています。

 

   

 “ Fairy Tales ” (London, Hodder and Stoughton, 1924)

 

 そのエマーソンでの壁画に、良く知られている逸話があります。

 カイが壁画を描いているとき、毎日のようにそれを見ていた少年がいました。その少年はある日、彼にこう言ったのです。
 「もしこの絵に猫が描かれていたら、僕はもっとこの絵が好きになると思うよ。」
 それを聞いてカイは少年に質問しました。
 「君は猫を飼っているのかい?」
 少年は満面の笑みを湛えて「もちろん!」と答えます。
 カイは少年に明日、その猫を連れてくるように言いました。少年は言われたとおりに飼い猫を連れてくると、カイはその壁画の中に白い猫を一匹描きこみました。後日、彼はそのことについてこう語っています。
 「本当はもっと写実的に描きたかったんだけど、彼がそれを許してくれなかったんだ。そこで赤煉瓦の中にデフォルメした真っ白な猫を描いたのさ。」

 

   

  


 晩年を貧困に過ごすも彼は決して美術への情熱を失わず、温かな親切心に満ちた稀代の天才カイ・ニールセンは持病であった喘息の悪化から1957年6月21日、71歳で息を引き取りました。

 

   

  

 

 彼の死後、作品の散逸を恐れた彼の友人たちの手によって、カイの作品は収集され保存されることになります。
 カイの絵の中に息づく浮世絵を思わせる大きな波濤や風の文様、人物の目の隈取などが、北欧的な色彩と相俟って私たちの目にラッカムやデュラックなどよりも新鮮に映るとともに、日本人には郷愁に似た特別な感情を呼び起こし、それか彼の絵を今日も人気のあるものにしているのかもしれません。

 

 

 “ East of The Sun and West of The Moon ” 1914年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アンリエット・ウィルビーク・ル・メールは個人的に非常に好きな挿絵画家のひとりです。
 初めて彼女の絵を見たのは18年前のことで、“ THE CHILDREN'S CORNER ”でした。ロンドンの古書店で見つけたスタイリッシュで洗練されたその本の挿絵は80年以上も前に描かれていたのが信じられないほどでした。柔らかなパステルカラーの挿絵は、内側の飾り枠にあわせて切り抜かれて頁に貼り付けられています。

 

 


 古書店のご主人にアンリエットのこと、初版とリプリンツの違いなどを説明していただき、少し高価ではありましたが1914年の元版のものを購入しました。その時に同時に勧められたのが初版のダスト・ジャケット付きの“ GRANNIE'S LITTLE RHYME BOOK ”です。
 今回はこの2冊と「くまのプーさん」の著者であるA.A.ミルンの“ A GALLERY OF CHILDREN ”を取り上げます。アンリエットのその他の本については折を見て取り上げたいと思います。

 “ GRANNIE'S LITTLE RHYME BOOK ”

   
   (Augener Ltd. & David McKay. 1914)

 

 アンリエットは、1889年4月23日にオランダのロッテルダムで生まれました。
 彼女の両親は芸術に関心が強く、父親はスケッチを描き、彼女の母親は詩を書くことを日課としていました。

 

 

 
 たとえば彼女の父親は、彼が就寝前のアンリエットたちに童話を話し聞かせている間、聞いている子供たちの姿をスケッチしています。そのスケッチは現在もオランダの美術館に数枚残されています。

 “ THE CHILDREN'S CORNER ”

    
  (Augener Ltd.& David McKay. 1914)

 

 彼女は絵画に関して天賦の才を幼少にして発現します。彼女の両親はその才能を認め彼女が5才の時、フランスの挿絵画家モーリス・ブーテ・デ・モンベルに会うために、彼女の両親は彼女をパリへ連れて行きました。そこでアンリエットは解剖学を勉強することと肖像を描くことに取り組むこようにとのアドバイスを受けました。その後、彼女は、2年間をロッテルダム・アカデミーで美術を学び、基本的な技術を身につけます。更にアンリエットを教えていた図画教師の1人は、彼女に対し、円の中で踊っているモデルをスケッチするように指示をだし、それを通して彼女は緩急の表現と動きを捉えることを習得しました。

 

  

 

 1904年、アンリエットが15歳の時に最初の本「Premières Rondes Enfantines」がフランスで出版されました。翌年、彼女と彼女の母は3冊の本に共同で取り組みます。彼女の母がテキストを書き、アンリエットはそれらに挿絵をつけました。

 

  



 “ A GALLERY OF CHILDREN ”

  
   (Stanley Paul & Co. Ltd. 1925)

 

 周囲の環境は彼女が芸術を身につけるために最適とも言えました。彼女の家は保育所を経営しており、それは子供たちを観察する良い機会を与えました。彼女はその子供たちの様子を注意深く、抑えた色と装飾的な線を使用して描きました。またこの時期、彼女はゴーダ製陶社のために「子供用の朝食セット」の食器の装飾とパッケージのデザインなどもしています。

 

  
 

アンリエットは両親と共にアラビアを訪れたのを境にして東洋の哲学に大きな関心を抱きます。特に謙抑的な教義を持つイスラム教に強い興味を示しました。1920年にセルース・カーケン(セルース・ケルゲン)男爵と結婚、名前を「サーイダ」と改名(“ A GALLERY OF CHILDREN ”の扉には“SAIDA”と記名しています)し、同時にスーフィー教に改宗します。以後はオランダのハーグに定住し、挿絵を描きながら、夫と共に貧困救済などの慈善活動や保育園の経営を通じて子供の情操教育に尽力しました。
1969年に77歳で逝去するまで、アンリエットはその生涯において「A Gallery of Children」(A.A.Milne)、「 A Child's Garden of Verse」( Robert Louis Stevenson)を含む14冊の本を出版しています。

 

 


 現在、アンリエットの絵本の邦訳版は見当たらないようです。下記2点も絶版となっており古書でしか見つけることができません。洋書であれば現行で販売されているものが多く簡単に入手することが可能です。

 「ル・メールのマザーグース・メロディ」(楽譜)谷川 俊太郎訳 偕成社 (1993/02)
 「こどもの情景」 A.A.ミルン (著)、 早川 敦子 (翻訳)、 パピルス (1996/06)

 

  “ THE CHILDREN'S CORNER ”
 

 “ A CHILD'S GARDEN OF VERSES ”(1905年)

 

(Charles Scribner's Sons, New York, 1905)

 ジェシー・ウィルコックス・スミス(1863 - 1935)は、1863年9月6日 、ペンシルベニア州フィラデルフィア近郊のマウントエアリーで生まれ、1935年5月3日に世を去りました。
 彼女は、ペンシルベニア美術アカデミーでトマス・エイキンズから最初の絵の指導を受け、1888年に卒業しました。その翌年から1893年まで「レディース・ホーム・ジャーナル」に勤務しましたが、画家を目指した彼女はそこを退社し、ドレクセル・インスティテュート・アート・アンド・サイエンスで、当時アメリカで最も著名であった指導者のひとりロバート・パイルに師事しました。
 彼女の才能は急速に認められ「センチュリー・マガジン」「コリアーズ・ウィークリー」「ハーパーズ・マガジン」などで多数の挿絵を描き、1900年代初頭における成功した女流画家のひとりとなりました。
 1958年にソサエティ・オブ・イラストレーションズが「名誉の殿堂」に選出した10名の女性挿絵画家のうち、彼女は2番目に推挙されています。

 

  

 ジェシーは生涯独身であり、子供もありませんでしたがその絵の主題は、「A Child's Book of Stories」 (1911)、「Dickens' Children 」(1912)、「 The Everyday Fairy Book」(1915)、「The Water-Babies」(1916)、「 At the Back of the North Wind 」(1919)、「 Boys and Girls of Bookland」 (1923)、「A Child's Book of Modern Stories 」(1920)など残された作品をみるとわかるとおりに「こどもたちの姿」に集中しました。
 彼女の挿絵はこどもに向けたものというよりも、寧ろ感傷的な大人に向けたメッセージが含まれているように受け取れます。懐かしむ、時を悼むという観点からすると「A CHILD'S GARDEN OF VERSES 」は彼女に相応しい題材であったと言えます。

 

   
 

この「A CHILD'S GARDEN OF VERSES 」は、「宝島」「ジギル氏とハイド氏」の著者であるロバート・ルイス・スティーブンソン(1850-1894)が残した韻律詩です。初版は1885年に発表されて古典詩として大変人気があります。
初版当時から現在に至るまで、ジェシー・ウイルコックス・スミスのみではなく、イヴ・ガーネット、チャールズ・H・ロビンソン、ターシャ・テューダその他大勢の挿絵画家によって取り上げられています。
翻訳では1923年(大正11年)に「スティーブンソン子供の詩」(東光閣書店)として福原麟太郎他の共訳で一部が紹介され、全訳版として「童心詩集」(英光社)が刊行されたのは1970年のことです。

 

 

 

子供の頃のステーブンソンは病弱な体質であまり元気に走り回ることはなかったようです。その幼少時に憧憬を込めて見ていた他のこどもたちの姿やひとり過ごした時のことが30歳を過ぎた彼の心に思い起こされ、アンソロジーとして送り出されました。

詩集冒頭には、彼の8人目の乳母であったアリソン・カニンガムへの献詩が捧げられています。

「献辞 - アリソン・カニンガムへ あなたの坊やから」

不安と苦しみのなかにあった僕を看病するために、
寝ずに付き添ってくれた長い夜、
平坦ではない道行きに手を伸べて、僕を連れて歩いてくれた温かな手、
読み聞かせてくれたすべての物語、慰めてくれたすべての痛み、
あなたがかばってくれたすべてに、あなたが運んでくれたすべてに、
その悲しみも喜びも、あなたとの日々の中にある。
僕の第二の母、 僕の最初の妻、 幼き日の天使であったばあや
今では丈夫に育った、当時は病弱だった子から
この本をあなたに捧げよう。

神よ、この本を読む人すべてが、良い乳母と出会えますように
明るく輝く炉辺や保育室で、この本の歌に耳を傾ける子供すべてが
僕の幼い日を喜びで満たしてくれたのと同じように、
あの優しい声で歌ってもらえますことを。
 

この「A CHILD'S GARDEN OF VERSES」については無刊記のものが多いですが、初版については扉の裏に、“ Copyright 1905 by Charles Scribner's Sons for the United States of America - Printed by The Scribner Press New York,U.S.A "の記載があります。

このほかの彼女の特筆すべき作品としては「グッド・ハウスキーピング」誌のカバーイラスト(1917年12月から1933年3月)や、チャールズ・キングズリーの「ウォーター・ベイビィ」(Hodder and Stoughton,, London,1916)のイラストレーションあります。特に後者の出来は素晴らしく、彼女の死後、原画はアメリカ議会図書館に寄贈されました。

 

 

  

 The Water Baby(Hodder and Stoughton for Boots, London)