平和記念日(和平紀念日)を翌日に控えた1998年2月27日に民生緑園を「湯德章紀念公園」に改名し、德章が銃弾に倒れた場所に半身像を建てることを宣布した。
湯徳章紀念公園(とうとくしょうきねんこうえん、繁体字: 湯德章紀念公園、旧称大正公園)、または民生緑園(みんせいりょくえん、繁体字: 民生綠園)は 台湾台南市中西区にある交差点内の記念公園。市中心部を通る主要道路が交差する七叉路のラウンドアバウト(民生緑園円環)に囲まれており、台湾省道台20線の起点。永らく民生緑園とされてきたが、二・二八事件でこの地で銃殺刑に遭い犠牲となった弁護士坂井徳章(台湾名:湯德章)の功績を後世に伝えるために改名された。
この写真の中央の二本の樹木の間に 銅像がある。
門田隆将、著
渾身の最新作登場!台湾で、その命日が「正義と勇気の日」に制定された日本人がいた――。日本と台湾の絆を表す「英雄」が歩んだ苦難と感動の物語。史上初の「日台」同時発売ノンフィクション!
1895年、ひとりの若者が台湾を目指して故郷・熊本をあとにした。台湾の治安維持と発展に尽くすためである。やがて台湾女性と家庭を築いた彼は、のちに「英雄」と呼ばれる男の子をもうけた。しかし、戦後の台湾の悲劇は、一家を動乱に巻き込んでいく。日本と台湾の“絆”を表わす「5代120年」にわたる壮大な一族の物語――。
「私には大和魂の血が流れている」「台湾人、万歳!」。台湾最大の悲劇となった1947年の「二二八事件」で、そう叫んで、永遠の眠りについた英雄がいた。坂井徳章弁護士(台湾名・湯徳章)である。父親は日本人、母親は台湾人で、生まれながらにして日本と台湾の“絆”を表わす人物である。
徳章が8歳のとき、徳蔵は地元の暴徒が警察を襲撃した西来庵(せいらいあん)事件によって命を落としてしまう。このとき徳蔵は死を覚悟して暴徒と対峙(たいじ)し、徳章ら家族だけを逃した。
父を早くに亡くした徳章は、貧困の中、辛酸を舐めながら勉学に励み、ついに当時の最難関国家試験である高等文官司法科と行政科の試験に両方合格する。
帝都・東京から故郷・台南へ帰り、台湾人の人権確立のために活動する中、徳章は国民党政府の「二二八事件」弾圧から台南市民を救うために奔走する。自らの身を犠牲にしながら、多くの市民を助けた徳章は、50年後に忽然と“復活”する。苦難の道を歩んだ台湾と、なぜ今も台湾人が日本と日本人をこれほど愛してくれているのか、その根源を解き明かした感動の歴史ノンフィクション――。
台湾少女、洋裁に出会う の中では、台南市は比較的治安は良かったと言いながらも、「二二八事件」当時台南の従兄の男性が暴漢に襲われて怪我する話が出てくる。
マンゴーのアイスのお店が多い
噍吧哖事件(噍吧哖は"タパニー"と読みます。別名を西來庵事件:せいらいあんじけん)
徳章が通った 小学校成績は常に一番だったらしい。
バルトン先生の弟子 八田の烏山頭ダムはサトウキビ栽培の灌漑に利用される目的もあった。
噍吧哖事件祈念館の道路をはさんで西に広がるのは 玉井製糖工場跡 徳章は師範学校を辞めたあと玉井製糖で働いた。 彼は燃料の炭の調達だった。 その時代に学堂で空手や漢詩などを学び。父と同じ警察官を目指した。
差別のない警官だったが。そのことが原因で左遷される。
そこで、弁護士を目指すことなり。当時の最難関国家試験である高等文官司法科と行政科の試験に両方合格する。
台南市の中心にある、林百貨店のある反対側のホテルの隣のビルに弁護士事務所を構えた。
このホテルの隣に弁護士事務所を構えた。
「二二八事件」とは
1947年2月 28日中国,台湾で起った大陸人支配に対する台湾人の反乱事件。同年2月 27日夜台北市で,大陸人官憲の闇たばこ摘発隊が台湾人老婆を殴打,抗議に集った民衆に発砲して1名を死亡させ,翌 28日憤激して省行政長官兼警備総司令陳儀の公舎に向った台北市民デモ隊が機銃掃射を浴び,死傷者多数を出した。激怒した民衆は大陸人商店を焼き,放送局を占拠して全島民に決起を訴え,反乱は各地に広がった。
台南では 徳章が反乱中心の学生たちを説得して台南市で治安が保たれたため市民が救われた。このことに感謝して銅像がに作られた。

















