『ナチと理髪師』(エドガー・ヒルゼンラート著、森田明-訳、文芸社)
本書の主人公、マックス・シュルツはシレジア州ヴィースハレ市に生まれの生粋のアーリア人種であり、私生児という設定だ。母は娼婦のような生活をしていて、父と見做したい男が五人いる。母親はポーランド人の理髪師・スラヴィツキと暮らし始める。スラヴィツキの「みじめ」な理髪店の真向かいにはユダヤ人が経営するしゃれた理容サロン「社交界の紳士」があった。そこには、生年月日がまったく同じイツィヒ・フィンケルシュタインという息子がいる。やがてマックスとイツィヒの二人は、まるで双子の兄弟のように仲良く同じ時間を過ごしていく。イツィヒは「金髪で目は青く、鼻筋はまっすぐで、唇は上品な曲線を描き、歯並びがいい」が、マックスは、「髪は真っ黒。両目はカエルのように飛び出ていて、鼻はワシ鼻。唇は分厚く、歯並びは悪い」。学校の仲間は、マックスの方をユダヤ人と見做して、イツィヒと間違えて呼ぼうとするというように描写している。そのことは、この小説全体にいえる色調でもあるが、「人種」を外見で判断するという皮相性をユダヤ人でもある著者が諧謔化していることに他ならない。
マックスはイツィヒとともに、イツィヒの父のもとで理髪師の修業をしていく。やがてヒットラーの台頭に際し、継父と一緒に親衛隊に入り、ポーランドの強制収容所へ転属になる。マックスはそこで、収容されてきたイツィヒやイツィヒの両親をはじめとして多くのユダヤ人を殺害、つまり大量虐殺者となっていく。終戦によって一転、マックスは犯罪者として追われる身となる。そこで思いついたのが、イツィヒになりすまし、ユダヤ人となることだった。海を渡り、ユダヤ人たちの理想の土地へ入植する。キブツを経験するもすぐ離脱し(著者の体験が反映している)、普通の市民生活を希求し理髪店で働く。やがて自分の店を持つようになり、成功者となっていく。イツィヒに成りきろうとするマックスは、ナチの親衛隊になった時と同じように、苛烈な建国主義者になっていくのだ。
「われわれは奇跡をなし遂げることができる。国家はもう獲得した。われわれは理想国家をも獲得する!」「わたしはユダヤ人から、この国は気に入らない、などと言われるとカッとなってしまう口だ。」「死んでしまった魂の多くが、わたしの理容サロンを訪れてきた。わたしはこうした人々の面倒を見た。歴史について、われわれの使命について、偉大なるユダヤ国家建設についてともに語り、こう言った。『この国には人手が要る。どんな腕も、どんな頭もすべて必要だ』そしてこう言った。『ヨーロッパへ戻ろうとするやつは裏切り者だ!』そしてこう言った。『自分の叔父や叔母を頼ってアメリカへ行くやつは卑怯者!』」
パラドキシカルな叙述だといっていい。アーリア人がユダヤ人になりきっても、その本質は変わらず、他との境域を図ろうとする差別主義者であり、人種というものにアイデンティティを求めてやまない劣等者ということになる。著者は、この主人公に対して緩めることはしない。最後は、そのアイデンティティが迷宮のなかに入り込み、自分がユダヤ人として偽装していたこと、大量殺害者であることを告白して、早すぎる死を迎えることになる。マックス・シュルツの不遇な出自は、人種間の差別化、優越性によって解消されるものではない。国家という幻に視線を向けることなくして、それは揚棄できないのだ。
ユダヤ人問題といえば、ナチス・ヒットラーによるユダヤ人虐殺がすぐに想起されるわけだが、そもそもユダヤ人という定義は難しい。人間を人種や民族でカテゴライズすることは、本来、転倒した考え方である。宗教、言語、文化の差異を人の種別化の根拠にすること自体、なんら正当性のあるものではない。
ユダヤ人とナチスの民族の問題を掘り下げながら、違う視点、イスラエル理想の国家としての問題点を考えさせてくれる物語になっている。ホロコーストを生き延びたユダヤ人の物語とは違い加害者の視点で描かれている(ユダヤ人の著書)
マックスが生まれたシレジア地方シレジア州ヴィースハレ市はおじさんが旅で訪ねた現在のポーランドの ヴロツワフ の町ではないかと考えています。
昔ながらの、ドイツの町の面影が多く残るポーランドの町はドイツ人とって心の故郷として人気の観光地でもあります。
ベルンハルト・シュリンク『帰郷者』の父親と母親の出会いの場がシレジア地方であったのも、ここがユダヤ人が多く住んでいたドイツの都市だったからからでしょうね。
『通訳ダニエル・シュタイン』では、ドイツ人的文化のなかで教育を受けたユダヤ人主人公の家族がシェジア地方から東へ東へと逃げることから物語が始まります。
ドイツ的な音楽の教育のなかで才能があったユダヤ人少女と少年が生き延びた物語の舞台もヴロツワフです。
