今昔物語集に見える義清阿闍梨は、一体、何の絵を描いたのか? | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

今昔物語集・巻28ー36話に見える「比叡山の無動寺の義清阿闍梨がをこ絵の語」というお話は、ちょうど結末近くのこれから面白くなりそうな場面でその後の文章が欠文となっており、インターネット上ではこのことに触れている方がたくさんおられるのだが、どなたもその解決編を示してくれてはいないので、僭越ながら自分で結末を考えてみることにした。

 

原文はそうしたサイトを見て頂ければ載っているので、ここでは煩雑にならぬように原文は略し、簡単なあらすじだけ紹介させて頂くことにする。

 

   ※

 

比叡山の無動寺に義清阿闍梨という年寄りのお坊さんがいて、大変修行の出来た方なのだが、一部の信者を除いては世間に名が通っておらず、おこ絵(鳥獣戯画のような戯画・漫画)の名手であることだけが世に知られていた。

 

ちょっとひねくれてもいたこの阿闍梨は、おこ絵を描いてくれと言われても少ししか描かず、ある時などはたくさん描いてくれと言われて何枚も差し出された紙の1枚に弓を持つ人を、もう1枚に的を描いて、真ん中の何枚かの紙にずっと線を引いて矢が飛んでいる有様を表し、絵の依頼主を呆然とさせたこともある。

 

さて、またある時、この義清阿闍梨が無動寺の行事で餅を配る役に当たったのだが、当時の天台座主・慶命の弟子に慶範という若い僧侶がおり、座主に可愛がられているのを鼻に掛け、欲しいままの我が儘な振る舞いをしていたので、義清阿闍梨はこの慶範にわざと餅を少しだけしか配らなかったところ、慶範が怒り狂ったという。

 

そこで義清阿闍梨の数少ない信者たちが、向こうが文句を言って来るよりも先に謝っておしまいなさいと提言したところ、義清阿闍梨は四枚の紙に詫び状を書き、きれいに丸めて形を整え、座主の部屋で他の僧侶たちと一緒に法要の打ち合わせをしていた慶範の下にこれを届けさせた。

 

   ※

 

…というところで話が切れている。

 

以下は私が考えさせて頂いたその後の結末です。

 

   ※

                  ©アジアのお坊さん

 

 

すると慶範が、これは私に嫌がらせをしたあの老いぼれ坊主からの手紙じゃないかと騒ぎ立てたので、座主が取りなして折角だから開けてみよと仰った。そこで皆が開けてみると、一枚目の紙には弓を持った人間の絵が描いてあり、2枚目と3枚目の絵にはずっと線を引いて矢が飛んでいる有様を表してある。

 

以前に同じような絵を描いてもらった例の依頼者もその場に同席しており、何だ、あの時の絵と同じじゃないかと言い出したところ、最後の4枚目の紙には大きな鏡餅に矢が突き刺さり、餅が粉々に飛び散って僧侶たちが逃げ惑う様が描かれていて、そこに1首の和歌が添えられていた。

 

 この世をば 我が世とぞ思う 餅好きの 

     持ち過ぎたるは 絵に描いた餅

 

 

この歌の元歌を詠んだ藤原道長の庇護を受けたことでも知られる慶命座主ではあるが、さすがに若い頃、いずれ優れた僧侶として座主にまで登り詰める相があると、修行を積んだ先輩僧に言わしめたというだけのことはあって(今昔物語集巻31-23話)、呆気に取られる若い慶範の顔色を見て呵呵大笑し、慶範も座主に諭されて心を入れ替え、以後は座主も慶範への態度に気を付けるようになり、義清阿闍梨には何のお咎めもなかったという。

 

座主ご自身もまた、他人の相をよく見極めるだけの器でいらっしゃったのだなあと、今に語り伝えられているということだ。

 

                    おしまい。

                 ©アジアのお坊さん

 

   ※

 

 

 

             

以上、お粗末さまでした。   

 

「ホームページ アジアのお坊さん 本編」もご覧下さい。