松田道弘「ミステリ作家のたくらみ」のこと | アジアのお坊さん 番外編

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ミステリ研究家としても知られていた松田道弘氏の「ミステリ作家のたくらみ」を読み直したのは、少し前にジョン・ディクスン・カーの「火刑法廷」を再読したからで、ハヤカワ文庫旧版「火刑法廷」に松田氏が書いた解説が、この本に収録されていたのを思い出したからだ。

 

奇術研究家としての氏の著作のことは以前から何度もこのブログに書かせて頂いているが、「ミステリ作家のたくらみ」に関して言えば、取り上げられている作品に古い物も多いので、余り頻読して来なかった。

 

今回読み返してみると、思っていたより奇術に関する記述も多く、カーを始めクリスティー、チェスタトン、ロースン、泡坂妻夫といった古典的作家の作品評はもちろん、執筆当時に流行っていて今はさほどでもない古い作品の書評も含めて、とても面白く読めた。

 

 

ただ、「クロースアップ・マジック」「シルク奇術入門」「奇術のたのしみ」といった初期の名作群はそうでもないが、それ以降の松田氏の著作の傾向として、博覧強記な奇術、ミステリ、パズル、ジョークなどに関する小ネタを無理やり差し込まんがために、地の文章との整合性がずれていることが多いのは、いつもながら気にはなったけれど。

 

それはともかく、小学生の時に親戚の大人たちにいくつか奇術を見せた時のことなのだが、子供の演技なのに少しもタネが見破れない大人たちが、もう1回やってみろなどとしつこく言うので、「シルク奇術入門」の最後に書いてある「惜しまれつつやめる」という言葉を口にしたら、ふーん、惜しまれつつやめるか、なるほどねなどと大人たちが諦めたことなどを、ふと思い出した。

 

子供にあんな口を利く大人にはなりたくないなと思ったものだが、それに引き換え松田氏の著作の文章は常にですます調で書かれていて、それまでの古い奇術解説書にあるような、師範が生徒に教えるような教師口調でなかったことに、小学生の私はいたく感銘したものだった。

 

 

                おしまい。

 

 

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