大乗仏教、特に日本仏教を批判する時の一つの要素として、「日本のお坊さんは法も説かずにただお葬式や法事でお経を上げているだけだ」という意見があるが、実は現代のテーラワーダ仏教においても比丘(お坊さん)はお経を暗誦する。
「日本と違って、参列者に背中を向けるのではなく、参拝の在家者に向かって法を説く形で読経するのがテーラワーダ仏教の素晴らしいところだ」と仰る方も多いが、取り敢えず、様々な儀式や法要において、テーラワーダ仏教のお坊さんたちも日本のお坊さんと同じく読経する。
大乗にしろ、テーラワーダにしろ、「読経する」というその形は、いずれにしてもブッダ在世当時の形式そのものではない訳だが、少なくともお経の暗誦というものは、文字の代わりに記憶によってブッダの教えを伝承する目的で、ブッダの時代から行われていた行為ではあった。
さて、現代日本に暮らすお坊さんである私が、例えば本を持たずにどこかへ出かけたり、待合室に坐っていたり、電車に乗っていたりしたとしても、覚えているお経を口ずさんだり、心中で唱えたりすることで、お経の文章を経本で読むかのように確認したり思い出したりすることが出来るし、それによって仏教の教えを今一度、体感することが出来るのだから、やはりお経の暗誦というものには、ブッダの時代から変わっていない大きな意味があるのだと私は思う。
※ちなみに日本のお寺では暗記していて暗誦できるお経であっても、経本がある場合は経本を読みながらお経を上げるのが正式な作法です。
上の空でお経を暗誦せずに、気づきを以て読経するために決められた作法なのだと思います。
おしまい。
※「ホームページアジアのお坊さん本編」もご覧ください。