坊主探偵 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

探偵はラオスのカフェで、毎夜仙人の夢を見るという一人の日本人女性に出会った。彼女の夢に出てきた仙人は、自分は秘密結社「仙人アジア」の一員で、タイの北部にあるワット・ランポンという寺院に住んでいると語ったそうだ。この夢が本当かどうか調べてほしいという依頼を受けて、探偵はタイへと旅立った。以下は探偵の手記である。     

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ビエンチャンからルアンパバン経由でチェンマイに着いた。ワット・ランポンはタイの瞑想寺院を紹介した西洋人向けの冊子を見たら呆気なく見つかった。見れば在家用の白い衣を着た日本人青年も瞑想に励んでいる。調子はどうかと声をかけたら、瞑想中に話しかけるなと怒鳴られた。怒りをコントロールできるほどにはまだ、瞑想修行が進んでいないのだろうか。
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この寺で外国人旅行者たちに瞑想を教えているのはスリランカ僧だった。スリランカでは僧侶の喫煙は御法度だが、タイでは煙草を吸うお坊さんもいくらかいるので、このスリランカ僧もここぞとばかりに煙草を吸っていた。わがままな外国人修行者の指導でお疲れなのだろうか。彼に仙人のことを尋ねると、向こうの韓国人テーラワーダ僧にでも聞いてくれとのことだった。
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ところで、托鉢を旨とするテーラワーダ(上座部)仏教のお坊さんたちは、仙人のような暮らしをしていると言えるだろうか。タイには行脚僧(プラ・トゥドン)と言って、頭陀袋ひとつで旅をする僧侶もいるにはいるが、全体からすれば少数派だ。スリランカでは托鉢の習慣が減って信者が寺で食事を供養するのが普だが、例えば反対にカンボジアでは鉢に供養が集まらず、昼前まで路上に立ち尽くす僧侶を見たことがある。やはり仏教僧というものは、本来は仙人のような遍歴修行者だったのだろうか。

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さて、ワット・ランポンの韓国人僧侶は、先日、ここで修行を終えたマハーバリプラム出身のインド人が、道教や大乗仏教に関心を示していたから訪ねてみてはどうかと勧めてくれた。そこでバンコクからシンガポール経由でチェンナイに着いた。チェンナイの州立博物館で見た聖仙(リシ)像は、現代のサドゥー(ヒンドゥー教行者)と比べると随分小奇麗に思った。バスでたどり着いたマハーバリプラムの岩山にも大きな聖仙像が刻まれていた。そこから少し先、海岸寺院のすぐそばに目当てのインド人が居たので、彼の話を以下の如くに書き留めた。
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…タイでの修行は良かったよ。タイのお経は少し訛ってきれいな抑揚で、何とも言えない美しさだった。けれど私は大乗仏教も好きだよ。東南アジアの仏教徒は、戒律を守らない日本の大乗は真の仏教ではないと言う。一方で日本の仏教徒には、テーラワーダを小乗と言って見下す人がまだまだ多いね。大乗の菩薩は戒律にすらとらわれない自由な境地? 確かに原始仏教の限界を発展的に解消するために大乗仏教が発生したにしても、煩悩即菩提と言いながら、日本の仏教徒には菩提が抜けているんじゃないのかね? 

もちろん現代のインドの仏教事情にしたところが、上座部と大乗が共存しているだけで、実際に仏教の新しい形態が見られるわけではないけれどね。
まあいずれ全人類が真理を体得して、ブッダの教えが宗教というよりも科学的で合理的な哲学、普遍的な真理であると世界中の人たちが気づいたならば、上座部がどうとか大乗がどうだとか、そんな議論そのものがさして重要でない些末事になるよ…     

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そう言えば以前ジャカルタの寺院で出会ったインドネシアの学生たちが言っていた。バリ島に来る日本人たちは、バリには神や妖怪がひしめいている、そして私たちはそれを感じることができるなどと言う。自分たちがインドネシア人でありながら、イスラムやヒンドゥーでなく、仏教を選んだのは、仏教が科学的で合理的な教えだからなのに、なぜ教育を受けた日本人たちがあんなことを言うのかわからない、と。

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タイでもピー(霊)を見たとか、ピーに取り憑つかれたという日本人がよくいるが、自己が確立していないが故の体験を自慢げに話しているのは恥ずかしい限りだ。霊だとか霊感だとかが、あるにしろ、ないにしろ、世界はすべて自分の心によって成り立っていると知った時、一切の迷いは消える。それがブッダの教えだ。
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さてさて、マハーバリプラムのインド人は、ネパールのバクタプルにあるsen-nin-cafeを教えてくれた。そのカフェは、赤煉瓦の町のはずれにあった。店番の少年の話では、敬虔な仏教徒であるネパール人と日本人女性の夫婦がこの店のオーナーで、今はここにいなくて、大阪の支店にいるという。そこで彼らを訪ねて、ロイヤルネパール航空で大阪へ飛ぶことにした。
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通天閣を南へ越えた下町に仙人カフェの本店はあった。この店は、インドやネパールと変わらないような内装で、値段までがアジア並だった。近頃は安さを求めてこの近所のドヤ街にバックパッカーが増えていて、さっきもジャンジャン横丁で西洋人が将棋をさしていたが、飯を食うのも酒を飲むのも髪を刈るのも、このぐらいの値段が本当に真っ当な社会の適正な価格だろう。ここは日本で一番アジアに近い町だと思っていたら、突然現れたネパール人店主が、私に向かって語り出した。

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…ぼくたちはこの店を開くまでに、ネパールやインドの食堂、タイの屋台や台湾の自助餐、インドネシアのワルンやヨーロッパのバーやらバルやらカフェまでいろいろ巡ったよ。うちの店は安いから若い女の子以外に労働者のおっちゃんも来るけれど、こんな場所で店を開いているからといって、「行政のあり方よりも、おっちゃんらの生き様って何かってことですよ」みたいなことを言う奴にだけはなりたくないね。ここらもインドみたいに路上で寝てる人が多いでしょ。日本人はインドの乞食を見てまるで瞑想しているようだったなんて言うけど、彼らだって金があれば宿に泊まるし、家があれば道では寝ないよ。あ、うちの奥さんが帰って来たよ…  

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その時、店に入って来た日本人女性を見て私は驚いた。彼女はラオスで私に調査を依頼した女だったからだ。

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つまりはこういうことらしい。仏教をベースにした同じ考えを持つ人々がアジア旅行の最中に互いに知り合い、一つのネットワークを形成し出した。ジャカルタで出会った学生たちも、この結社「仙人アジア」の会員だった。会員たちは順に私を誘導し、私と思想を深め合い、いまや私の入会条件は整った。
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世界にはいまだ教義宗派の呪縛から脱け出せない仏教徒や、霊や超能力といったレベルでしか精神世界を語れない人も多いが、全人類が執着を離れることで世界の平安が達成されると考えている人たちは着実に増えている。全人類が仙人のように暮らす社会では、寺や坊主や教団などは、もはや無用の長物と化すだろう。

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探偵は手記をまとめると、全人類が執着を離れるその日が来るまでは、坊主の姿でいる方が、遥かに自由でいられると考えたので、ワット・ランポンで出家して、頭陀袋ひとつで旅に出た。全人類が執着を離れるその日まで、探偵の旅は続くだろう。

 

 

                おしまい。

 

※次回「坊主惑星」へと続きます。                                                    

 

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