例時作法なのか、常行三昧なのか | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

よく仏教入門書などにも「朝題目に夕念仏というのは、法華経を基に組み立てた「法華懺法」を朝に修し、阿弥陀経を基に組み立てた「例時作法」を夕方に修した、天台宗の作法に由来する」と書いてあったりするのだが、この例時作法、天台宗以外にも浄土宗や華厳宗(東大寺)などの宗派でも修される(ちなみに東大寺では二月堂修二会の中に例時作法が組み込まれているのだそうだ)。

 

ところが本家の天台宗では例時作法のことを「常行三昧」と称することが多い。お坊さん同士で普段、法要のことなどを話す時の日常会話でも「こないだの通夜は常行三昧で行った」「今度の法要は常行三昧仕立てに致しましょう」などと表現するご僧侶を、よく見かける。

 

この辺りのことを「天台宗法式作法集」には

「例懴作法を指して、常行三昧、法華三昧と言うに至っているが、平素の作法の本来の呼び名は「例時作法」「法華懴法」である。

天台大師の摩訶止観にある四種三昧からすれば、「常行三昧、法華三昧」と呼称して普段行っているいる「例時作法」「法華懴法」は四種三昧における自行の行法になっておらず、化他のための儀式となっている。

特に常行三昧に関しては日本で慈覚大師円仁の説によって編集され、往生浄土を願うことが目的となっているが、今は敢えて「常行三昧、法華三昧」の名称を用いることにする。」といった意味のこと書かれている。

 

そして「例時作法」を解説した章であるにも関わらず、この章のタイトルそのものが、もはや「常行三昧」となっている。

 

さて、そうしたことを踏まえた上で、私は例時作法のことを常行三昧と呼ぶのが好きだ。

 

それによって元は自行であった行法の名残りに思いを馳せ、通夜や法要においてそれを行う時であっても、これは本来自行であり、読経や作法の中で気づき(念=sati)を得るために自分は今これを修しているのだと、体感することができるからだ。

 

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