人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に 惑ひぬるかな
-「御撰和歌集」より 藤原兼輔
先日、生まれ故郷の町をたまたま久々に訪ねた時に、自分は過去や今までの経験を断ち切るべく出家したのだから、子供時代の思い出にはもはや執着すべきではないと、痛切に感じた。
それはさて置き、お寺やお坊さんとは何の関係もない家に生まれながら、自ら望んで縁あって得度し、お坊さんになることができた私は、当初、「出家」と「得度」の違いがよく分からなかった。
例えば「天台宗法式作法集」の得度式の次第を記した「出家得度」の項に、「出家とは世間の煩累を絶って静かな処で聖道を修するのであり、得度とは三宝に帰依する最初であるが、現在の事情で言えば得度式とは仏教入門の宣誓式と言える。但し出家の形式は必ずしも行わぬ場合もある。」といった意味のことが書かれているのを見て、分かったような分からぬような記述だと思ったものだ。
ブッダの時代の仏教や現在のテーラワーダ仏教においては、概ね得度することと出家することとは同義だけれど、日本仏教界では「得度すること」が必ずしも「在家を離れること」ではないために、この辺りの用語の意味が曖昧になっている。
単に家を出て修行することは仏教徒でなくてもできるし、例え仏教を信奉していたとしても、得度せずに自己流で出家して修行することも可能ではあるが、生まれた家も親兄弟も家族も捨てることが本来の「出家」であり、その上で正式な手続きを経て仏教僧団(サンガ)の僧侶になることが「得度」だったわけだ。
ところで日本人テーラワーダ比丘のプラ・タカシ・マハープンニョ師(落合隆師)による「テーラワーダ仏教の出家作法」の中にプッタタート比丘による「親族の放棄」という初心比丘への訓示が再録されていてる。
「これ(親族の放棄)は俗世間の人のように集まり関係しあう因となる親族への憂慮を持たないことを意味します。…(略)…パーリ聖典や仏教説話の中で、親族を踏みつけにして捨て去った修行者のことが述べられています。仏陀在世時に生きた出家者の中には、生涯自分の生家を訪ねることはしないと誓い、そのように行うものがいましたが、仏教の出家者がめざすものは、一般的な在家者が持つ家族に対する懸念や心配を捨てることであって、親族に会うことはしないといった事ではありません。」
先日、故郷の町をほんの束の間訪ねた時に、現代社会における出家比丘の事情も考慮に入れつつ仏教における「出家」の本義を説いたプッタタート比丘ならではのこの訓示を、私はずっと心に思い浮かべていた。
親の家 出てこそ闇に 差す光
おしまい。
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