アジアのお寺…大勢での読経 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

大勢でお経を上げる時の朗々とした響きは、一人でお経を呼んでいる時とは、また違った良さがある。さて、時々お手伝いに行く大きなお寺では、職員の方も一緒に朝のお勤めで般若心経を読誦するのだが、新しく入った職員の人に、息継ぎはどこの部分ですれば良いのでしょうかと、先日、聞かれた。

 

当たり障りのない程度、簡単に答えては置いたのだけれど、実は案外これは難しい問題だ。お坊さん同士でお経を上げる場合、先ずは導師(調声・維那・始経師など場合によっていろんな呼び方がある)に声を合わせるのだが、例え導師が間違ったとしても、導師に合わせておけば読経が乱れないのだと、私は教えられた。

 

息継ぎに関して言うと、慣れない者同士で読経した場合、全員が同じところで息を継いでしまい、参拝者からすると読経が止まってしまったように聞こえて甚だみっともないということが、よく起こり得る。

 

そこで私は、なるべく人が息を継がないところで息継ぎしたり、切りやすい文字のある箇所で、最低限の息継ぎをするように工夫している。読経も気づき(sati=念)のための有効な手段だと、プラユキ・ナラテボー師にご指導頂いたことがあるが、息継ぎもまた然りだと思う。

 

だから私は、読経の上手下手や読経の音程的な美しさを云々することが、仏法を理解し体得する仏道修行の本義から外れているとは思わない。現にテーラワーダ仏教でも大勢での読経は日常的なことであり、みんなでお経を上げることや読経のリズムに心地よさを感じること自体は、決して大乗仏教や日本仏教だけの特色ではない。

 

文字によって経典が編纂される以前、ブッダの教えはブッダの直弟子たちが暗誦によって伝えて来た。教えを暗誦する中で、教えを記憶し、教えを再確認して来た姿が、大勢での勤行という形で、今の仏教の中に残っているのかも知れない。

 

 

 
                        おしまい。