1990年代に放映された「NHKスペシャル ブッダ 大いなる旅路」というTV番組に関してNHK出版から発行された書籍版にちょっと気になる点があった。第1巻のインド編に、さる高名なインド学者がブッダの悟りとはどんなものかを説明するのに、「ブッダは宇宙の生命とでも言うべきものが自分の心の中に躍動しているのを感じた」というようなことを書いているが、果たして如何なものか。
さて、手塚治虫の名作「ブッダ」の中でも、悟ったはずのブッダが、誰の心にも神はいる、誰でも神になれるみたいなことを「新しい悟り」だと言い出すのだが、それが「火の鳥」などで神のことをコスモゾーン(宇宙の生命)として捉えようとした手塚自身の理解なのか、発表媒体の基盤である宗教団体の思想が影響していたのかは定かではない。
キリスト教は日本に余り広まらなかったように言う人もあるが、子供ですら神さまと言えば、白い髭を生やした創造主をイメージするほどであり、日本人に一神教的な「神」という概念を植え付けた影響はとても大きいと思う。そして、聖書的な基盤がない状態で創造神の概念を持ったから、日本では学者も作家も宗教家たちでさえも、「神」を「宇宙の生命」みたいな言葉に置き換えれば、科学的に神を理解できるのだと勘違いしてしまう。
キリスト教的観念、ユダヤ教、イスラム教を始めとする一神教的観念というものはとても良く出来ていて、それは一度信じてしまえばとても居心地の良いシステムだから、何百年も補強されながら、欧米やイスラム社会を支えてきた。だからそれを否定しようとしたら、「利己的な遺伝子」で知られるリチャード・ドーキンスのような科学者が、「神は妄想である」「さらば、神よ」(共に早川書房)のような書物を書かねばならなかった訳で、決してそれは「神」を「宇宙の生命」という言葉に置き換えれば科学と神は共存できるなどと主張して済むような、簡単な問題ではないはずだ。
ブッダの悟り、仏教の教えの根本は諸行無常、諸法無我に尽きる。それを日本の学者たちのように、もっと壮大な何かとの一体化であると考えたり、これからはエコと共生の時代だから、仏教や日本古来のアニミズム的感性や神仏習合的感性が一神教に取って代わる、などと呑気な事を言っていたのでは、ドーキンス博士のような熱烈な無神論主義者たちから、一顧だにされないだろう。
私も「宇宙が始まる前には何があったのか?」(文藝春秋)という本を以前に読んだ時は、著者のローレンス・クラウス氏が神の存在について思索するその姿勢は、中途半端な哲学者たちが頭の中でこねくり回した論考よりも遥かに明晰だけれど、ただ一点、仏教のことを、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同じ有神論的宗教で、なおかつそれらの宗教より下位に位置すると捉えていることを、ちょっと不満に思ったものだ。
けれど、やはり以前に読んだ「神は妄想である」に続いて、今回「さらば、神よ」を読んでみたら、ドーキンス博士が盟友のクラウス氏同様、仏教を有神論的に捉えていたり、余り顧みたりしていないことについて、こちらが不満に思ったり失望したりしても意味がないことが分かった。
ドーキンス博士にとっての重要課題は欧米やイスラム社会を始めとする一神教世界で現実に存在する社会的問題としての宗教なのであって、博士はその根本にある「神」と言う概念について、進化生物学者として真っ向から対峙しているだけなのだ。
神って何だろう、宇宙って何だろう、宗教って何だろうと十代の頃に思い、聖書やキリスト教の本を独学で読み出し、結果、仏教にたどり着いてお坊さんになった私としては、「さらば、神よ」はとてもスリリングで興味深く読める本だった。
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