改めて「大乗非仏説をこえて」のこと | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

大竹晋氏の「大乗非仏説をこえて」(国書刊行会)は、大乗仏教がブッダの直伝ではないという学説について、大乗仏教側がそれを認めなかったり、そのことをうやむやにしたり、原始仏教や上座部仏教や大乗仏教は同じ基盤を持つ同じ仏教であると適当に牽強付会して来た歴史を詳細に検討し、なおかつその上で大乗仏教の存在意義を探るという内容だ。

 

現代日本の上座部仏教団体周辺の人々による大乗仏教批判という状況も視野に入れつつ、学術的に丁寧に論理を進めて行く姿勢がなかなか刺激的で、さればこそ佐々木閑氏、宮崎哲弥氏、末木文美士などという錚々たる御仁たちが、帯に賛辞を寄せているのだろう。

 

天台宗の僧侶でありながらタイでテーラワーダ仏教(上座部仏教)比丘として得度修行をさせて頂き、その後、その経験を生かしてインドのブッダガヤ日本寺(印度山日本寺)に駐在させて頂いた私としては、テーラワーダと大乗仏教の関係は、常々意識せざるを得ない問題ではあった。

 

天台宗が法華経、密教、念仏、禅を始めとする仏教の様々な法門を自らの一心に止揚する教義であることも預かって、上座部仏教と大乗仏教を、同じ基盤に基づくものであると、ぼんやり曖昧に納得させて来た傾向が、私の中に多分に存在したことは否めないこともあり、特に興味深く読ませて頂いたものだ。

 

さて、「大乗非仏説をこえて」では、法華系と浄土系の2宗派が特に大乗非仏説に敏感であったことが説かれているが、例えば日本寺同期の浄土真宗に属するS師と共にご法務でラージギルの霊鷲山を訪ねた時、ここで観経(観無量寿経)や大経(大無量寿経)が説かれたんですねと感涙にむせぶ師に対して、でも大乗経典はブッダのずっと後の時代に編纂されたんですよねと、意地悪な問いかけをしたことがある。

 

そうしたらS師は、分かってます、分かってます、分かってますけど、自然と涙が出て来るんだから仕方ないじゃないですかと仰った、そのお言葉はいまだに印象に残っている。

 

また、我々よりもっと後にブッダガヤに駐在した浄土宗のT師と日本寺の境内でお話した時に、現代科学に立脚した現代社会において、極楽浄土の存在、阿弥陀仏の存在を、あなたはどのように解釈していますかと尋ねたら、浄土も阿弥陀仏も現に実在すると考えていますと仰ったので、ああ、なるほど、それならば信仰の論旨としては矛盾がないのだなと、感心したことも思い出した。

 

さて、「大乗非仏説をこえて」についてだが、では最終的に考察を重ねた著者がどんな結論を導き出したかと言えば、たとえ豊富な資料と該博な知識を基に検討し、真摯に仏教について考えた上でとは言え、案外そのお答えは平凡で、これなら上座部仏教と大乗仏教を何となくすり合わせるが如き自分の曖昧な考えにも、意外と望みが残されているのではないかと、心ひそかに思った次第。

 

 

 

          

                 おしまい。

 

 

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