狂気の物語 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

人間誰しもどこかが幾分かは狂っている、というのが私の持論だ。「心を病んでいる」という意味ではなく、どこかしら、物の考え方や行動が狂っていてずれている人がほとんどだ。そして、「狂い」が全くない心に至った人間が、「ブッダ」なのだと思う。

 

さて、E.A.ポオに「タール博士とフェザー教授の療法」(1845年)という、精神病院を舞台にした物語がある。

また、小説ではないが、有名な「カリガリ博士」という映画が製作されたのは、それよりずっと後の1920年だ。

そして、その少し後、名探偵ブラウン神父シリーズで知られるG.K.チェスタトンの名作「詩人と狂人たち」が発行される。

その6年後の1935年に日本で夢野久作の「ドグラ・マグラ」が書き下ろし自費出版の形で発行される。ちなみに「ドグラ・マグラ」は、出版年こそ「詩人と狂人たち」よりも後だけれど、久作は何年にも渡ってこの大著を完成させているから、時を同じくして洋の東西で「狂気とは何か」をテーマとした偉大な探偵小説が世に現れたことは、甚だ興味深い。

 

一方で戦後に目を向けると、せいぜい「カッコーの巣の上で」(ケン・キージー著・1962年)があるくらいで、後はサイコキラー物のホラー小説だとか、精神病院を舞台にしただけの小説なら、山ほどあるが、特に見るべきものはない(例えば埴谷雄高の「死霊」など、もはや現代では読むに値しないほど、浅はかな思弁内容だと思う)。

 

ちなみに角川文庫版の「ドグラ・マグラ」(1976年初版)の解説は精神科医のなだいなだが書いているが、なだが「くるいきちがい考」を著したのはそれよりも後の1978年だ。但し、この解説文も「くるいきちがい考」も今となっては大した文章だと思えず、「ドグラ・マグラ」ほどに、狂気の解明に役立つような内容だとは思えない。

 

江戸川乱歩は小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」には一定の評価を与えているものの、「ドグラ・マグラ」のことは今一つ理解できなかったと告白しており、「探偵小説四十年」の「ドグラ・マグラ」出版記念パーティーの章でも、「怪物夢久の面目躍如」的な、中途半端なコメントしかしていない。「詩人と狂人たち」を神学のパラドックスとして、探偵小説の理想的な最終進化形と評している乱歩の「ドグラ・マグラ」に対するこの態度が、私にはとても不思議だ。

 

ついでに言うと、「タール博士とフェザー教授の療法」「ドグラ・マグラ」「カッコーの巣の上で」は映画化されているが、「詩人と狂人たち」は映画化されていない。そして、この作品だけは映画にしないでほしいと私は思う。