私は大学で神道学を専攻した後に発心し、比叡山で得度した。だからその後に四国八十八カ所を歩き遍路で巡礼した時に、満行後、一般の方だったらお礼参りは高野山へ、他の信仰を持つ方だったら、他宗の本山や別のお寺にお参りするところなのだろうけれど、托鉢姿の僧体で、歩いて伊勢参りをしてみようと思い立った。
一つには旅や巡礼に子供の時から大いに興味があったから、昔の旅人の跡を慕いたかったのだが、さて、さらにそれから後、タイやインドのお寺でも修行させて頂いて現在に至り、今も行脚巡礼が自分の修行の核となっている、その私の心象風景が、以下の駄文だ。
※ ※ ※
長い長い巡礼の果てに、この迷路城にたどり着いた。何と私好みのこの構造。城の内部は錯綜を極めていた。私だけのために用意された、私だけの城。もはや私が、ここを出て行くことはないだろう。
私が生まれたのは大陸の果ての東の島国だった。この国は昔、神々を祀る神殿に満ちていたが、ある時、西の大国から、僧院と修道僧の信仰が入って来た。
その僧院は絢爛豪華、その教えは理路整然にして修道僧の暮らしは持戒堅固、かくて僧院の信仰は忽ちの内にこの島国を席巻した。
やがて修道僧たちは、この国固有の神々もまた、いにしえの聖修道僧の顕現であるという教義を生み出し、ここに僧院の宗教的権威は、島国全土に遍く行き渡った。
しかし、何百年かの後、神殿派による革命が起こり、僧院の権威は著しく失墜したが、それからまた百年もせぬ内に、西の大国が攻めて来て、神殿派は力を失った。
それからは、僧院の信仰も神殿の崇拝も、ごく平和裡に国民の間に共存し、その頃に生まれた私は、神殿派の神学校で司祭者の資格を得るべく学んだ。
しかしやはり、僧院の信仰をも合わせ学ばねば、人の心の成り立ちは分らないと思い、改めて修道僧となって修行した。そして、さらにさらに深い深い修行をと、僧院信仰の源である西の大国へも巡礼し、そこの精舎でまた、何年も学んだ。さらにさらにと思いは深く、長い長い巡礼を続けたその果てに、今やっと、この迷路城にたどり着いたのだ。
城は錯綜を極めていた。何と私好みのこの構造。もはや私にとって、その成り立ちは明らかだ。私だけのために用意された、私だけの城。私自身によって組み立て直され、一切の事物の本質と等価となった私の心。長い長い巡礼の果てにたどり着いた、この迷路城。
※画像は交通科学博物館(2014年閉館)で2003年に行われた企画展「むかしの人の旅 なにわの人のお伊勢参り」のパンフレットです。
※「旅行人」2006年春号に掲載して頂いた
「バックパッカーのためのアジアお坊さん入門」を大幅加筆し、
2019年に全面的にリニューアルした
「ホームページ アジアのお坊さん 本編」も是非ご覧ください。