今さらながら「猿之助、比叡山に千日回峰行者を訪ねる」の話 | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

「猿之助、比叡山に千日回峰行者を訪ねる」(春秋社)を遅ればせながら読ませて頂いた。光永圓道大阿闍梨の前著「千日回峰行を生きる」(春秋社)は2015年4月に出版されてすぐに読んだのに、2016年1月に出た「猿之助…」になかなか手が出なかったのは、タイトルも装丁も今一つな上に、市川猿之助師が該博な宗教の知識を基に鋭く圓道大阿闍梨に切り込む、とされている冒頭のくだりが、的外れかつ目新しくもない見解を、得々と斬新そうに述べておられているために、読むのが苦痛になりそうだったからだ。
 
ところがこの度、思うところあって、やっとこさ、この本を手に取って見たら、やはり冒頭付近は予想通りであったものの、読み進むにつれ、圓道阿闍梨の正直で自分を偽らないいつものあの調子が、猿之助師の切り口とやらを、すとんすとんとかわしていくのが面白く、圓道師自身は多分いつも通りの対応をされているだけなのに、そのお考えと姿勢がくっきりと浮かび上がって来る構図が、とても興味深かった。
 
圓道師の説くお寺の日常の法儀や勤行を含めた修行についてのあれこれは、末端ながら同じ宗派の修行をさせて頂いた者としては甚だ有益で、「お経を読むのは背中で法を説くこと」「天台宗の木魚は曲打ちでなく雨垂れ打ち」「線香をまっすぐ立てることから、障子の開け閉めに至るまでが大事」「行も法務もペース配分が大事」といった何気ない事柄が、師の回峰行および満行後の現在の裏打ちになっていることが、よく理解できて本当に面白かった。
 
祈ることしかできないと言うが、その祈りに力はあるのかと切り込まれた阿闍梨さんが、何かの足しにはなっている、いずれは届くと答える辺り、スタスタ坊主の私などが甚だ僭越ながら、光永圓道大阿闍梨は数々おられる歴代の回峰行者の中でも稀有なお人柄だと繰り返し書かせて頂いている理由が、正にそこにある。
 
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2017年11月29日、光永圓道大阿闍梨が無動寺明王堂輪番を成満される前日に無動寺でご挨拶させて頂き、その後、お参りした横川での写真です。
「猿之助、比叡山に千日回峰行者を訪ねる」の装丁が今一つなので、こちらの写真にさせて頂きました。