法要や葬儀の時、参列者に帽子を脱ぐようお願いするのだが、昔だったら当たり前のこの作法、なぜ脱がなかければならないのですか!? みたいに詰問されたら、一々答えなければならないなといつも思うのだけれど、今のところ、まだそんな事態になったことはない。
近頃、政府関係者を始めとするお歴々が参列する、大規模な慰霊法要であっても脱帽しない参列者が多く、それが必ずしも若い方に限らないことに、ちょっと違和感を感じている。
そう言えば、インドのブッダガヤにある日本寺の坐禅の時間に自転車で通って来る西洋人バックパッカーがいて、本堂のすぐ脇まで乗り入れようとするから、門柱の外に停めるように指示したことがある。
そうしたら、その若い西洋人は、なぜなのか、その理由を教えてほしい、盗られたりしたら困るではないか、仏さまの場所だからと言うけれど、仏さまの場所だったら何故、自転車が駄目なのだとしつこく聞かれ、辟易したことがある。日本人だったら、しぶしぶでも、仏さまの前はご遠慮下さいと言えば、それで理由を説明しなくても、了解してくれるのにと思ったものだ。
今、日々の法務の中で、私の脱帽の指示に素直に従ってくれる参列者を見て、仏前での脱帽が当然のルールである世代でも、或いはそれを知らない世代であっても、仏前や神前では脱帽という礼儀作法があって、特に仏教的に言えば、それは突き詰めると自分の心を調えるためなのだといった説明を、この方たちにはしなくても良いのだから、有り難いことだなあと思う。
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