十如是の話 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

天台宗において、法華経の神髄とされ、日常勤行でもよく唱えられる「十如是」は、法華経方便品の一部を抜粋した短いお経であり、天台教学をベースに成立した日蓮宗でもお馴染みなのだが、さて、その意味となると案外、訳文や解説を読んでも、即座に理解できる方は少ないのではなかろうか?
 
ちなみに原文は以下の通りだ。
 
「仏所成就 第一希有 難解之法 唯仏与仏 乃能究尽  諸法実相 所謂諸法 如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等」
 
という訳で、敢えて現代語訳や解説は、ここでは書かない。実は先日、タイの高僧プッタタート比丘の「観息正念」を読んでいたら、こんな箇所があるのに気が付いた。
 
「最善の生き方を決める真理の秘密、すなわち、無常、皆苦、無我、空、あるがまま、という真理を正確に認識する必要がある。
形成されるものはすべて「無常」であり、終りなき流転の中にある、と知る。
形成されるものはすべて本質的に欲望を満たし得ない「皆苦」であると知る。
事物はすべて「無我」である、と知る。
事物は、どんなものでも、自我、私は、私の、が「空」である、と知る。
事物すべてを「あるがまま」に知る。
これらの一緒になったものが「究極の真理」である。心が、二度とその道を見失うことのないよう、この真理が完全に理解されるまで観察する」
 
法華経とは何の関係もない箇所でありながら、「諸法実相」と「あるがまま」(tathata=真如、実相)の関係という問題だけでなく、いろんな意味で私には、十如是を思い起こさせる文章であるように感じられたのだが、皆さまは如何?