徒然法師 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

日本の古典文学においてお坊さんに対する呼び掛けは「御坊」もしくは「御房」、「お坊さん」そのものは「法師」と呼ぶのが一般的だけれど、さて、枕草子に「思はむ子を法師になしたらむこそ、心苦しけれ。ただ木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ」とあることについて、お坊さんというのは木切れのようなつまらない物だ、ではなくて、世間のことに心を動かさない木石のような非情な存在だ、と注釈している方が何人かおられるようだ。

けれど、兼好法師が徒然草の第1段で枕草子のこの部分について触れ、「つまらない物」という方の解釈で捉えているから、やはりここはそれに従うべきではないかと思う。

因みに兼好法師が清少納言の言葉を引いているのは、僧侶たる自分を卑下するためでもなければ、或いは清少納言に反論しているのでもなく、面白がって興味深く引用しているように、私は思う。

何度も書かせて頂いていることなのだが、私がお寺と縁の無い一般在家の出身でありながら、お坊さんになるために出家するに当たっては、色々と周囲からの反対もあったのだけれど、そんな時に私は徒然草を読んで、人と生まれたからに必ず出家すべきだという兼好法師の言葉に、随分と勇気付けられたものだ(例えば58段、59段、112段など)。

そしてまた、実際にお坊さんになってから徒然草を読み直すと、兼好法師が如何にお坊さんとしてバランスの取れた物の見方をしているかということが、身を以って実感できるようになった。

だから私は折に触れ、折に触れ、この書を何度でも読み返し、その度にお坊さんになりたくてあがいていた若かりし頃の自分を思い出して、ちょっと胸が熱くなる。 

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