天台宗の布教師資料というものが各寺院に送られて来て、布教師資格のない私も読ませて頂いたのだが、その中に、比叡山一山の若いご住職が、徒歩で行脚巡礼した話を載せておられた。
比叡山から伊勢まで、そしてさらに熊野へ向かい、西国三十三箇所巡礼へと網代笠の行脚姿で歩かれたそうだが、慣れぬこととてすぐに足を痛めたり、体調を崩したという体験を、腰低く語っておられたのを見て、自分の経験をあれこれ思い出した。
私もまた、タイでの修行を終えた後、四国遍路を徒歩で巡礼し、その足で大阪から暗越奈良街道を通って伊勢まで野宿しながら行脚したものだから、同じ天台宗のお坊さんで、伊勢まで歩いた方がいると知って、ちょっと嬉しくなった。
歩き慣れない頃というのはまず足を痛めるものだから、江戸時代の「旅行用心集」(現代語訳が八坂書房から出ている)にも、或いは現代の千日回峰行者・光永圓道大阿闍梨の「千日回峰行を生きる」(春秋社)にも、如何に足を痛めず歩くかの工夫が、事細かに述べられている。
さて、私事ながら、少々、歩き慣れて来た頃に、京都の鞍馬山を参拝して、名にし負う僧正ケ谷の木の根道を物ともせず、飛ぶように駆け抜けた時のこと、きちんとした行の蓄積もないのに、まるで回峰行の行者さんにでもなった気分で、これは全く慢心ではあった。
早く上手に歩くこと自体は仏道修行の手段なのであって、決して目的ではないのにと我が身を省みて、思わず詠んだ川柳一句、
旅馴れて 僧正ケ谷を 天狗かな
おしまい。
