我が善友、我が善知識 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

漢訳仏典における「善知識」という言葉は、日本人上座部僧プラユキ・ナラテボー師がよく仰る「善友」と同じく、「kalyana mitta」(これはパーリ語。梵語=サンスクリットはkalyana mitra)の訳語だ。

「善知識」だと法における「師」のみを指しそうに思うが、「善友」だと自分より優れている人だけでなく、自分と等しいレベルで法を求める「仲間」のニュアンスをも含む気がする。

ダンマパダ78に「悪い友と交わるな。卑しい人と交わるな。善い友と交われ。尊い人と交われ」(中村元訳)とあり、「スッタニパータ」47に「自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである」(中村訳)とある通りだ。

ところで私事ながら、お坊さんになって年数が経って、段々とお坊さんでない昔の知り合いとは話が合わなくなって来た。とは言っても、それは一般の方々と乖離した、お高い暮らしをしているからではなくて、お坊さん仲間であっても、仏教徒として思いを同じくしない方たちとは、考え方が合わないから話をしていても噛み合わず、段々お付き合いしなくなっているので、仏教徒としての思いを同じくする人たち、正に善友、法友の方たちとしか、連絡を取り合わなくなったというくらいの意味だ。

と、まあ、ここ数年、そんなことを考えていた。プラユキ・ナラテボー師インド駐在同期のH師などが私にとっての善友で、両師とも、何年かに一度しかお会いしないし、メールなども、本当に折りに触れてしか連絡し合わないのに、いざとなれば法について、仏教について、アジア事情について、或いはもっと気軽な話題についても気兼ねなくお尋ねし、話し合える心強い法友だ。

思いを同じくする仏教徒であるならば、必ずしも善友はお坊さんでなくとも良い訳なのに、ただ、私にとって、在家者でありながら、かつ私の法の仲間であり師であると思える人が身近に今まではいなかったから、「お坊さんとしか話が合わない」などと広言していただけなのだが、さて、近頃は、プッタタート比丘CD-R頒布作業を通じて「タイ佛教修学記」管理人のI氏という方とのご縁を持たせて頂くことになった。

I氏はタイでの出家体験をお持ちなのだが、元々、日本のお坊さんでなかった一般在家の方でありながら、テーラワーダ比丘として修行した経験のある方も今では増えているものの、I氏の場合は還俗後も仏教徒としてその体験を自身の中で深め、その結果を先のサイトに集約し、なおかつネット上の発信に留まらず、在家の身のままで着実に布教活動を催して、仏法興隆に尽くしておられる。タイ仏教や瞑想についての知識経験もおそらく私以上で、なおかつ私には出来ない外向きな活動をなさりつつ、私に仏教の何たるかを再確認させて下さる、新たな心強い法友だ。

「善友」というものが、出家者に限る存在ではないということを思い出させて下さった点においても、これは私にとっての得がたい仏縁で、正に「自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべき」だと、つくづく思う。


※我が法の師であり友であるプラユキ師が、2017年4月2日付朝日新聞の折り込み紙「GLOBE」の取材を受けられた。世界中のいろんなニュースを幅広く取り上げる「GLOBE」紙のバックナンバーのいくつかを、私も手元に置いているのだが、この4月2日版のことは後から知ったので残念に思っていたところ、もしやと思って朝日新聞社に問い合わせたところ、もはや在庫僅少となり処分寸前だった4月2日付バックナンバーを、この度、入手させて頂くことができた。嬉しい限りだ。

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      ※画像はweb版「GLOBE」からお借りしました。



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