法衣を着たまま電車に乗ることの意義 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

何をそんなことを大袈裟に、と思われるかも知れないが、久し振りに法衣を着て電車に乗る機会があった。遠方の用事だったので、あろうことか、新幹線にまで乗らせて頂いた。

お坊さんからすると、世間のお坊さんたちが衣を着て新幹線やら在来線に乗っていることは、何も珍しいことではないが、一般の方がそれを聞くと、結構、驚く話のようで、実は今回、身内に不幸があって、お葬式に参列するための外出だったのだが、10年ぶりくらいに会う親戚たちに、私は在家の出なので、彼らはみな、お坊さんではないものだから、興味津々でそのことを聞いて来る。

「着物」のままで電車に乗るの?、そうです、「衣」のままで乗ります、みんな避けてくれるから楽ですよ、などとはぐらかしながら、タイでは本当に乗り物に乗ったらお坊さんの席が決まっていて、みんなが道を空けてくれることなどを、心中ひそかに思い出す。

ついでながら、一般家庭の身内に僧侶がいるのは珍しいことなのか、葬儀場の会館の中で、何度となくスタッフの方に、お寺さま、そちらは親族控え所です、ご僧侶はこちらへ、などと案内されそうになり、こんな場所で不謹慎な事ながら、これもひそかに興味深く楽しんだ。

寺の外では自分の足で歩くことの多い私は、公共の乗り物に乗るのが久々だったため、電車内の喧騒が心配だったのだが、やはり衣を着ているというのはえらいもので、お坊さんの格好でいると、子供が騒ごうが、若者が携帯電話で話し出そうが、何も気にならない。ただ黙然とつくねんと、瞑目して電車に揺られ、ああ、法衣というのは身を覆うバリアだな、ブッダはよく法衣というものを定めておいてくれたなあなどと、また嬉しくなる。

そう言えば、バンコクへ行く電車の中でも瞑想はできるとプッタタート師が書いておられたなあなどと、これまたのんびり考えている内に、電車は早くも目的地に着いたものだ。


イメージ 1

                    おしまい。