「宗論は どちら勝っても 釈迦の恥」
上の川柳をマクラに振った「宗論」という落語があるが、この素晴らしい江戸川柳が一言で全てを言い尽くしてくれているのに引き換え、落語の方は残念ながらさほど大した出来ではない。
それはさて置き、もう何年か前に、不特定多数の人がお参りに来られる信者寺での法要中、読経している私の後ろから、お参りの方たちの中のおじさんが大きな声で知っているお経を唱和して来られたことがあった。
ちょっとだけ唱和、という方なら時々いるが、その方は結構マニアックなお経でも一緒に唱えて来て、ついでに言うと、明らかにお坊さんではないのに作務衣を着ている、ちょっと癖のあるおじさんだった。
止せばいいのに、じゃあ、このお経なら分からないだろうと思って一層マニアックなお経にすると、これまた後から着いて来る。そうか、このお経、考えてみたら真言宗などでも使うじゃないか、しまった、さっきから唱和しておられる部分、全部、真言宗でも使うお経ばかりだった、よし、じゃあ、これならどうだ。
そして延々、私とおじさんは大きな声を出し合いつつ、お経をがなり合い続け、私はその後、何年もこのことを思い出しては、今度このようなことがあったら、一切気にせず、落ち着いて、通常通りのお経を上げようと、心に誓ったものだ。
さて、ところが最近、また私がお経を上げている時に、今度は同じお経を唱和するのではなく、後ろから南無妙法蓮華経のお題目をうなり声でずっと唱え続けているお爺さんがいた。
来た、来た、とうとう来た、こんな機会、ここは冷静に落ち着いて、落ち着いて。
天台宗は全ての法門を学ぶけれど、その中心は法華経であり、日蓮上人も叡山で学び、自らを天台沙門と名乗っておられましたよねと、私はそのお爺さんに心の中で語り掛け、よし、ではこのお経とこのお経ににしてあげたら、きっとお爺さんは喜ぶぞ、ほら、唱和して来た、よし、じゃあ、今度はこれならどうだ。
そしてお爺さんと私は大きな声でがなり合い、ああ、だから何年も前に、今度こんなことがあったら、一切気にせず、落ち着いて通常通りのお経をと、心に決めて置いたはずじゃないかと省みて詠んだ拙い一句、
宗論は どちらにしても 我(わが)の恥
おしまい。
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