精進料理の諸問題 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

『菜食の主要は「心」であり、重要なのは心の清浄です』 ー「仏教の精進料理の問題に対する考え方」21頁)


高校の休み時間に、肉食が殺生だと言うのなら、どうして人間の体は肉を食べた時に美味しく感じるのだと思う?と友達に聞いたら、そんな小難しい話は止めてくれと、煙たがられたことがある。

その後、お坊さんになったので、本来、生物学的には自然なことであった肉食を、仏教的にどう解釈し乗り越えるかが、仏教者の務めだと考え始めるようになったのだが、その後に読んだ、台湾佛光山の創始者である星雲大師による「仏教の精進料理の問題に対する考え方」という小冊子には、私が感じていた数々の疑問に対する大師の答が、事細かに載っていた。

私事ながら、ホームページ「アジアの精進料理」の中で、私が挙げさせて頂いたのは例えば、

・上座部仏教は菜食ではない。
・中国仏教系の仏教は、昔の日本も含めて、菜食が本義だが、同じ大乗仏教であるチベット仏教は菜食ではない。
・中国系仏教の素食(精進料理)には、いわゆるモドキ料理、すなわち肉や魚料理の外観を模した料理がある。これは遊び心なのか、それとも肉食への執着なのか。
・日本の精進料理は伝統あるものとして有名なのに、日本仏教全体では肉食が普通である。

といった事柄なのだが、大師はこうしたことに対しても、明晰な仏教観に基づいた見解を述べておられるし、植物を食べることも他の生命を蝕んでいることに変わりはないではないかという考え方についてや、また、生活のために殺生を生業としている人について、仏教的にどう考えるべきなのかという問題についても、慈悲に富んだ解釈をなされている。

実際、精進料理の問題は、仏教的な意味での慈悲心と極めて不可分なのだが、ここに少しずつを要約するよりも、是非機会があれば、この問題に興味にある方は、「仏教の精進料理の問題に対する考え方」を実際に手に取って頂きたいと思う(日本にも佛光山の別院が何ヶ寺かあります)。

ちなみに、大師は日本仏教が菜食でないのも、チベット仏教と同様に、地域性や風土的な条件の問題だと書いて下さっているのだが、これも正に星雲大師の慈悲心の表れかと…。



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画像は佛光山台中道場の精進料理レストラン「滴水坊」。同書8頁には、大師がどんな思いで、各地の別院に滴水坊を設けたかが述べられています。

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