旅と言語 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

先月、タイで久し振りにタイ語を使って思ったのだが、タイ語は短い。例えば「アオ・マイ?=要るか?」と聞かれた時なら、場合にも寄るが、「アオ=要る」と一言で答えるだけでも事足りる。「(以前に)~したことがある」という意味の「クーイ」という助動詞があって、「~したことがあるか」と聞かれた場合、「クーイ」と答えるだけでも、「したことがあります」という意味になる(発音はちょっと難しいけれど)。

或いは名詞を始めとして、カタカナ表記にすると一文字の単語もたくさんある。タイ語では、そうした短い音の単語をたくさん連ねて文章を作るから、一気にまくし立てられると却って全然聞き取れないくらいだが、少なくともカタコトのレベルで話す場合、タイ語は短くて楽だなあと思う。

また、語学がそんなに得意でないタイ人と英語で話していると、例えば「できる」ということを表現するのに、「can!」と一言で答えてくれたりするのだが、これはタイ語で「ダイ=できる」と答えている感覚なのだろうと思う。短く話せるだけでなく、主語を抜いて話せるというのも、日本人の感覚からすると楽だ。

英語ネイティブの方なら、会話の場合は、一人称の主語を抜かして英語を話すことも少なくないようだし、英語でも一人称でない主語を使った文章はいくらでもできる訳だが、英語に堪能でない我々が外国に手紙を書くと、どうしても「I」や「We」で始まる文章の羅列になってしまう。英語が基本的に主語を重視した文章構造なのは確かだが、こうした言語を主語優勢言語と言うそうだ。

反対に、日本語やタイ語のように主語を抜いても成り立つ言語は、主題優勢言語と言うらしいのだが、さて、ヒンディー語はどうなのだろう? 英語や西洋の諸言語と同じく、インド=ヨーロッパ語族に分類され、男性名詞や女性名詞があるかと思えば、語順は日本語に近いし、主語を抜いても十分に話せる。

よく初心者向けの旅行会話集に、「ヒンディー語は語順が日本語と同じなので学習しやすい」などと書いてあるが、同じウラル=アルタイ語族である韓国語などは、確かに日本語と語順が同じで覚えやすいと思うが、ヒンディー語の関係代名詞の複雑さは明らかに英語に近く、日本人にとって習得が大変だ。

言葉というのはどうしてこうも多様に発展したのだろう? 言語学というものが、脳科学や人類学や記号学とも交錯する複雑な学問であるのも尤もだと、旅先で外国語を使うたびにつくづく思う。大昔、一番最初に出会った外国人同士が、どうやって意思の疎通をし始めたのかというのは、子供の時以来、今も私の心を去らない大きな疑問だ。



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