前からずっと調べてみたいと思っているのだけれど、天国とか悪魔などというキリスト教の概念や、それに伴う用語は、せいぜい日本では明治以降に一般的になったはずだろうに、どうしてそれらの概念は、日本人にこれほどまで浸透しているのだろう。
失礼ながら日本におけるキリスト教信者は、さほどに多くないはずだし、大方の日本人は聖書を読んだことすらないと思うのだが、今、「神」と言えば、人は日本の神社に祀られた神よりも、一神教的な神をイメージし、悪魔や天使や天国といった言葉を、その存在を信じているか否かは別として、日常的に口にする。
日本のお寺の供養の現場でも、70代、80代以上の方たちが、あの世のことを指すのに「天国」という言葉を使う。と言うよりも、そうした年配の方を含めて、特殊な仏教的談義の場以外で、「極楽」という言葉を口にする人に、ほとんどお目にかからない。キリスト教はそういう意味では、宗派や団体の枠組みを越えて、深く日本人の深層に定着したと言えるのではないかと、私は思う。
ただし、キリスト教神話の概念に限らず、西洋一般の神話伝説に関する言葉や概念もまた同様なので、この件については、もう少しきちんと考察する必要があるのかも知れない。例えば人魚であるとか妖精であるとか小人だとかいった言葉や概念も、もはや日本人には土着の信仰並みにお馴染みだ。
「あの人は天使のようだ」とか、「妖精みたいな人」などという日本語の表現は、どの程度のイメージを持って日本人に意識されているのだろう。羽の生えた小さな美少女に限らず、西洋の化生や怪かしの類も日本語では妖精に分類されるが、それらは日本の「妖怪」と、どう違うのか?
仏教では、神も悪魔も妖精も妖怪も、みな四生の内の化生に分類され、自然界の生き物である胎生・卵生・湿生と区別されるが、ではその「化生」は、同じく仏教の十界、即ち仏・菩薩・声門・縁覚・天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の内の、どれに当てはまるのだろう?
神々は天で、悪魔は阿修羅か? ならば鬼神・妖怪・妖精の類は? 人間以外の生き物は胎生・卵生・湿生に関わらず、虫も魚もみな畜生なのか?
恵心僧都の「往生要集」に、「六趣・四生」という言葉が見えるが、これは六道と四生(化生・胎生・卵生・湿生)のことで、つまりはこの言葉でこの世の生きとし生けるものを全て表しているのだと思う。
仏教では、天・龍・夜叉・阿修羅といった八部衆を始め、神も悪魔も妖精も妖怪も、みな四生の内の化生に分類され、自然界の生き物である胎生・卵生・湿生と区別されるが、ではその「化生」は、同じく仏教の六道、即ち天・人・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄、もしくはそれらに仏・菩薩・声門・縁覚を加えた十界のどこに位置するのだろうか?
神々が天で、悪魔が阿修羅だとしても、鬼神・妖怪・妖精の類は、天なのか阿修羅なのか? 逆に人間以外の生き物を六道に当てはめた場合、胎生・卵生・湿生に関わらず、虫も魚もみな畜生界に位置するのか?
などと以前から考えていたのだが、十界という区分が実際の世界ではなく、心のレベルを表しているのならば、地獄餓鬼の精神レベルにある悪魔もいれば、梵天帝釈の精神レベルにある妖怪もおり、或いは動物の中に仏菩薩に等しい心を持つ者がいてもおかしくない訳だ。恵心僧都源信も最終的に「一乗要訣」で一切衆生悉有仏性という考えにたどり着いたのだから。
※2020年5月8日改稿しました。