ヒンディー語やタイ語には、インドの古語であるサンスクリット語やパーリ語が語源の言葉が多い。テーラワーダ仏教の経典に使われているのはパーリ語で、漢訳される前の大乗仏典には主にサンスクリット語が使われていたので、この4つの言葉には共通する単語がたくさんあって、それに気づいた時にはちょっと嬉しくなる。
ところで、ヒンディー語で「勉強する」のことを、「सिखना シクナー」と言う。「पढ़ना パルナー」という言葉もあるが、これは「読む」という意味でもあって、日本語のニュアンスで言うと、「シクナー」は「学ぶ」、「パルナー」は「勉強する」、といった感じだろうか。
さて、仏教には「三学」という教えがある。「戒・定・慧」という、仏教修行における三つの実践項目のことだが、この「三学」の「学」をパーリ語では「sikkha シッカー」と言うので、ああ、ヒンディー語の「シクナー=勉強する」という言葉は、「シッカー」と同じ語源なのだなと気が付いた。
と言うのも、ちょっと最近、「お勉強する」のは大事なことだなあと考えていたからで、日本語では、「勉強ばっかりして面白みのない人」とか「ガリ勉」などという言葉もあって、「お勉強」という言葉にマイナスイメージがなくもないが、けれどやっぱり、いくつになっても勉強する、ということは、とても大事なことだと思う。仏教の勉強であっても語学の習得であっても、或いは他のことであっても、まだまだ勉強することは無数にある。
お坊さんの中に、やたら「自分はこう習った」「そうは習わなかった」という言い方をする方がいる、ということについて、前に一度、書かせて頂いたことがある。習ったからこうだ、ではなく、習ったことの意味は何か、なぜそうなのか、そうであるならその応用は如何にすべきかを考えることもなく、ただ「自分はそうは習わなかった」で止まってしまうのはどうだろう、ということを言いたかったのであって、もちろん仏教の勉強に関して「習う」という言葉を使うこと自体には、何ら問題はない。「学ぶ」という言葉も、また同じだ。だって仏教で修行のことを「修習」(しゅじゅう)と言うし、仏教の基本教理に「三学」があるくらいだから。
三学という用語の「学」という言葉の元は「sikkha」だ。そう言えば、パーリ語の五戒を唱える文句にも「sikkhapadam samadiyami」という言葉が何度も出て来るが、ヒンディー語の「シクナー」は、これらの「sikkha」と同じ語源なのだなと考えて、冒頭のようなことに思い至った次第です。
おしまい。
※「三学」のことは、パーリ語で「trisikkha」と言います。
※ヒンディー語の「シクナー」や「パルナー」というのは動詞の基本形なので、実際の会話では状況に応じて語尾変化します。
また、「勉強する」「学ぶ」を表すヒンディー語は、この他にもたくさんあります。
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