「苦」は確かにあるけれど | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

世の中と、世の中の人の行いを見るにつけ、徒然草の74段を思い出す。


「蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走る人、高きあり、賤しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり、帰る家あり。夕に寝ねて、朝に起く。いとなむ所何事ぞや。生を貪り、利を求めて、止む時なし」


天の視点で人の営みを見たら、ちょうど人間が蟻の動きを見ているような感じだと、兼好法師も思ったのだろうか。本当に徒然草の時代から今に至るまで、人間って本当に何をやっているのだろう、などと思うこともしばしばだが、さて。

この娑婆世界、すなわち人間社会の状態こそが、「Dukkha ドゥッカ」=「苦」である訳だが、「一切皆苦」という仏教の根本原理は、厭世的な考えだと誤解を招きやすいから、余り強調しない方が良いという傾向が、特に日本の仏教界にはあるようだ。

本当は、「一切皆苦」というのはネガティブな教えではないのだが、この辺りの兼ね合いを、プラユキ・ナラテボー師は、「脳と瞑想」(サンガ)の中で、「苦はあっても苦しまなくていい」と、端的に一言で解き明かしておられる。もう少し、詳しく引用すると、以下の通りだ。


「仏教では「苦」が焦点になりますが、ポイントは、苦はあっても苦しまなくていい、ということにあります」(「脳と瞑想」p.117)


自分自身のことも含めた、蟻の如き世間の有様には、嘆息したくなることもしばしばあるかも知れないが、でもだからと言って、苦しまなくても良いのだ。

そう思ってプラユキ師の他の著作を見直してみたら、「苦しまなくていい」「苦しみからの解放」「苦しみを観察する」というテーマを、師が著作の各所で繰り返し説いておられることに、今さらながら改めて気が付いた。


※(2015年6月28日追記)
6月27日にこの記事を投稿させて頂いた時点で、「脳と瞑想」の引用箇所を173頁と書いていましたが、117頁の間違いでしたので、修正させて頂きました。
昨日、該当箇所を探して不審に思われた方がおられましたら、慎んでお詫び申し上げます。
                         合掌


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