「生誕120周年 江戸川乱歩の迷宮世界」(洋泉社)という本は、今までにない新しい切り口や珍しい資料写真もさることながら、現時点で最も新しい乱歩本なので、先行の諸研究を踏まえて編集されている点が、他の乱歩本と一線を画す特徴だ。
ただ、その部分に関して気になることが一つある。この本には乱歩の短編長編全作についての詳細なあらすじと解説が付されているのだが、「人間豹」の項に、獣人人間豹の正体は最後まで明らかにされないが、「明智君」という獣人の呼びかけは、あの人のことを彷彿させると書いてある。
先行の諸研究を踏まえている、というのはこういう部分で、例えばこれは新保博久氏が光文社文庫の「人間豹」の解説で、人間豹の恩田と二十面相の本名遠藤の、Onda と Endo の音の近さ、などと思わせぶりに書いておられることも、念頭に置いての記述だろう。
優れた乱歩研究家である新保氏は、こういう裏設定的な空想がお好きなようで、「明智小五郎全集」(講談社大衆文学館 文庫コレクション)の解説でも、「一寸法師」で言及される「眉の薄い女」は、「お勢登場」のお勢だとか、明智小五郎の「小」という文字が、小林少年の「小」という文字に引き継がれているとか、いろんな空想を逞しくしておられる。
それはそれで楽しいことで、それを芦辺拓氏のように、自身の物語世界に昇華させて下さる分にはいいのだけれど、真面目な解説の中でそれをやられたら、特に光文社文庫版の江戸川乱歩全集などは、今後、乱歩研究の定本テキストとして使用されて行く可能性が大なのだから、ほら、現にこうして新しい本に若いライターさんが、「明智君という獣人の呼びかけは」などと、根拠も無しに書くではないですか。
いろんな方たちが、明智や二十面相は二代目に代変わりしているんだとか、明智の妻である文代が、ある作品で二十面相のアジトに捉われて愛人になっているのではないかとか、空想を楽しむこと自体は否定しないけれど、それがファンやマニアの間では当然の定説とされているんだよみたいな内輪受け的な態度は、ちょっといやだ。
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