邪視と観音経 | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

インドに詳しい方から、邪視のことを聞かれた。インドでよく門前に怖い顔の絵や面が掲げてあるけど、あれは他人の妬みやそねみを避けるための物でしょう? とのこと。

私は邪視というのは悪魔や妖怪の邪まな目のことで、それに睨まれると良くないから、その目を避けるという信仰だと思っていた。この世の人間の羨望や恨みの視線のことだとは知らなかったと言うと、「南インドを知る辞典」(平凡社)にも書いてありますよと言う。見てみると本当にそうだ、書いてある。

籠目(カゴメ)模様などは悪魔の目を錯乱するために、魔除けとして掲げる物だったはずだがと、記憶を探り、昔に読んだ「アジア魔除け曼荼羅」(NTT出版)という古い本を引っ張り出してみたが、邪視については、特に詳しく書いていなかった。荒俣宏氏などが書いていた気もするが、手元に本がない。

ところが灯台もと暗しで、wikipedia の邪視の項を見たら、日本で evil eye の信仰を邪視と訳して紹介したのは南方熊楠だと書いてある。あれ? 今、何年かぶりに読み直している熊楠の「十二支考」が目の前にあるけれど? と思って目次を見たら、何のことはない、蛇の章に「(付)邪視について」という項目がある。

それを見て、私が邪視という概念を初めて知ったのは、昔、「十二支考」を読んだ時だったのだと気が付いた。そして、「十二支考」には悪魔の目についてしか書いていなかったので、人間の悪意の目についての信仰を知らないまま、それをインプットして現在に至ったらしい。

さて、例によって博覧強記の熊楠が、邪視を表す他の漢字の例として、邪眼、悪眼などを挙げ、法華経普門品にも出てくると書いている。

普門品って観音経じゃないか、しょっちゅう上げているこのお経に出てきたっけ? と思って経本を見たら、ほんとだ、出て来る、もし夜叉羅刹などの悪鬼が悪眼をもって見つめようとしても、観世音菩薩の名を唱えれば、見つめることが出来ない、「尚不能以悪眼視之」って、いつも唱えてるこの部分、邪視のことだったのか。
 
悪魔の邪視に出会った時に、邪視除けの護符がなくても、「南無観世音菩薩」と唱えればいい訳だ。
 
 
 
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