随喜と黙念 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

少し前のことなのだが、あるお寺で法要の導師を頼まれ、なおかつその日の法要には、同じ宗派のお坊さんたちが何人か、見学に見えるから、とのことだった。

 
宗派やお寺によって、多少、用語は違うが、法要の一員として参加し、自分も読経に加わることを、天台宗では、例えば「出仕する」などと言う。
 
参列はするが、あくまでも参列だけで、読経にも参加しない場合、「随喜する」と言う。自分の宗派の法要であれ、他宗派の法要であれ、参列・聴聞するだけなら、「随喜」だ。これはお坊さんが参列する場合も、一般在家の方がお参りする場合も同じだ。
 
僧侶が他宗派の法要に随喜し、「出仕」のように一員としての役割は与えられていないが、法要の中で客僧として、焼香の役割だけ設けられているような場合は、特に「諷経」(ふぎん)などと言う。
 
さて、冒頭に述べた法要の場合は、そのお坊さんたちは、法要に「随喜」される訳だが、そんな時、お寺さま方の中には、知っているお経だけを一緒に声を出して読経される方がたまにいる。同宗派の方が参列される場合でも、他宗派の方であっても、そういう方はたまにおられる。
 
私も場数の少ない頃は、衣を着てよその法要に随喜した場合、声を出して読経に参加したものか、声を出さずにじっと坐っているべきか、思い悩んだものだが、いろいろな場を経験した結果、やはり出仕していない随喜の僧侶は、声を出さずに坐っているべきだと思うようになった。
 
以前、よその法要に随喜する時、ちょっと微妙な立場の参加だったので、どうしましょうかと導師の方に相談したら、黙念していて下されば結構ですよと仰って頂いたことがある。「念」とはまた、「サティ=気づき」のことでもあるのだから、「黙念」とは上手い言い方だと思う
 
ちなみに冒頭の法要に「見学」に来られたお坊さまが方は、こちらが何も言わなくても声を出さずに、しっかりと黙念して下さっていた。                         
              おしまい。