小僧時代に、小僧頭のD師が、ご自分の実家のお寺まで、一緒に托鉢行脚の旅をしないかと誘って下さったのだが、丁重に、しかし頑としてご遠慮させて頂いた。私はまだ得度しただけで、本山の正式な修行も終えておらず、ろくにお経も作法も知らない。何より、お坊さんとしての場数や経験が絶対的に少ない中で、行脚中に出会うであろう様々な出来事に、たとえ先輩僧が同行してくれていたとしても、決して臨機応変に対応できないだろうと思ったからだ。
民俗学で「ねずみ経」などと呼ばれる話型がある。新米の旅の僧やお遍路さんなどが、一夜の宿を借りた家で経を請われる。ろくにお経を覚えていないので、困った挙げ句、壁から顔を出しているネズミを見て、とっさに「おんちょろちょろ出て来てそうろう」などと唱えてごまかす、といった話だ。
もちろんこれは薬師如来のご真言「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」を踏まえての笑話なのだが、きっと私は、似たような出来事が、昔はたくさんあったからこそ、作られた話だと思う。
遊行の宗教者が珍しくなかった時代、家に彼らを泊めた人も多ければ、泊めてもらった行者も多かっただろう。話によって、主人公は「お坊さんとは名ばかりで、お経もろくに知らなかった」などと語られることも多い「ねずみ経」だが、本当に真摯な思いで行脚してはいたものの、まだ経験も少ない時に、経を請われてあせったという旅の宗教家は、実際にたくさんいたはずだ。
私も四国八十八ヶ所の行脚中、娘が胸を患っていますので、お加持をお願いしますと母娘のお遍路さんに請われて、その時は本山での修行も終えた後で、お加持を授ける資格はあったものの、経験の少ない中、全力で対応するのに苦心した覚えがある。
あらゆる昔話の旅僧ばなしは、きっと一抹の事実を伝えていると思う。お大師さんが借りる宿が見つからずに、橋の下で野宿したら、その寒さ辛さに一夜が十夜にも感じられたという「十夜ケ橋」伝説。寝袋を携えて行脚する現代の我々と違って、それはそれはお寒かったことだろうと思う。
しかし、橋の下で眠れるだけでも、野宿には救いだ。「軒先なりとも、お貸し下さいませ」という、昔のお芝居に出て来そうな旅人の台詞もまた、実際の旅人の本音だと思う。屋根のある所で眠れる有り難さは、野宿経験のない人には分からないだろう。
この梨は食べられない梨だと嘘をついて、托鉢僧に梨の実を与えることを拒んだために、それ以降、村では梨の実が成らなくなったという「食わず梨」伝説。きっと托鉢を断った人も、断られたお坊さんも、当時は本当に、少なからずいたのだと思う。
私が未熟だった頃にも、少し経験を積んだ後にも、或いは四国のようにお遍路さんや巡礼を受け入れ慣れている所でも、そうでない土地でも、望外のお接待に預かったこともあれば、反対の対応に出会ったことも、たくさんある。それもこれも、全部が今の自分の血であり肉だという訳で、
宿借るも 貸すも貸さぬも 南無大師
という拙い川柳を詠んでみる。
「おんちょろちょろ」と唱えていた、幾多の新米のお坊さんやお遍路さんたちも、後にはきっと修行を積み、満願を成就されたであろうことを、私は信じている。
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