テーラワーダ仏教ではゴータマ・ブッダのみが崇拝対象なので、基本的に仏像は優しいお顔をされているが、ご承知のように、大乗仏教には様々な仏像・尊像があり、中には憤怒像と称される、怖いお顔の仏像もある。
分けても日本人に馴染み深いのが不動明王で、怖いお顔の奥には何としても衆生を救わんとする慈悲の決意を宿しておられるそうで、その御本体は大日如来であるという。
とは言うもの、仏像は慈愛に満ちた表情をしているものだと思う人々からすれば、いかなる理由であっても、憤怒形の仏像には違和感を感じるかも知れない。
たとえ救い難き衆生を、力ずくで救う決意を表すお顔だとは言え、衆生を怖いお顔でどやしつけて良いものなのかどうか。
日本のお坊さんの修行の世界でも、一見、体育会系的な厳しさで先輩僧が指導に当る傾向があるが、外面を厳しくしなければ、娑婆の論理を道場に持ち込む、年齢も経験も様々な修行者たちを指導しかねるとは言っても、仏教徒であるならば、いついかなる時も、慈愛に満ちた人格で、指導すべきではないかという議論も、要点は同じかも知れない。
時には臨機応変に、ばしっとした態度で指導しなければならない時もある、でも仏教徒だから、怒ったり感情的になったりせずに、心の奥には慈悲を持たなければという、ぎりぎりのせめぎあいが、憤怒像の造形になったのではないかいなと、想像してみたりする。
初めてタイで修行させて頂いた時に、日本のお寺と違って緩やかで、修行が個人の自発的な意思に任されている感じが、とても性分に合うと思ったのだが、こんなことを言うと、それは違うと仰る方があるかも知れない。
そう言えば、スマナサーラ師が、小僧を躾ける時に、相手がいやになるくらい細かいことを注意し続けて気づきを生じさせてあげることもある、と書いておられるのを読んで、テーラワーダ仏教でも、日本式と同じ指導方法を採られる方もあるんだなと驚いたことがあるのだが、これもやっぱり手元に資料がなく、出典が不確かなので、悪しからず…。
おしまい。
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