「我昔所造…」(がしゃくしょぞう…)で始まるおなじみの懺悔文(さんげもん)、この短い偈文(げもん)さえ唱えておけば、日常生活であれ、修行のことであれ、まあ、大概どんなことにも対応できるということを、そのお坊さんの師僧の方が、いつも口癖のように仰っていたそうだ。
「我昔諸造諸悪業 皆由無始貪瞋痴 従身口意之所生 一切我今皆懺悔」
(がしゃくしょぞうしゃくごう かいゆむしとんじんち じゅうしんぐいししょしょう いっさいがこんかいさんげ)
勤行時には、例えば「我、昔より造りしところの諸々の悪業は、皆、無始の貪瞋痴による 身口意より生ずる所なり 一切を我、今みな懺悔す」などと、読み下す場合もある。
テーラワーダ仏教にも、毎日、比丘たちが二人一組で行う懺悔の作法がある。また、月に2回、ウポーサタという行事があって、戒律全文を比丘全員で反芻し、懺悔する。
このウポーサタという言葉を音訳した漢語が「布薩」(ふさつ)で、古来、日本仏教でも行われた。また、懺法(せんぼう)と言って、懺悔を儀式化した法要は、大変、重要視された。
そんなあれこれを踏まえた上で、「我昔所造…」の懺悔文は、短くても「懺悔」という行為の真髄を、的確に、そして全て含んでいるということなのだろう。この偈文は、現在の台湾や韓国の経本にも使われている。
子どもの頃、キリスト教には懺悔(ざんげ)というものがあると聞いて、謝ってしまえばどんなにひどいことをしても許されるの? と、疑問に思ったものだが、神の存在を前提にするか否かはさて置き、懺悔によって人の心がリセットされるという考えは、きっと共通なのだろうなと、今、思う。
自分の行動、言葉、考えによって生じてしまった日常生活における、例えば人間関係のひずみ、職場や家庭での悩み苦しみ、或いは自分から生じた訳ではないと、自分には思える外界のいやな出来事、それら全てに対して、1回1回、気づきを以って懺悔すれば、驚くほどに心が調う…ので、だまされたと思って、懺悔文、何かのたびに、心で唱えてみて下さいな。ちなみに、私も唱えています…。
おしまい。
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