あれこれ阿羅漢 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

                       
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 そもそもの疑問は、どうして十六羅漢とブッダの十大弟子とが、ほとんどかぶっていないのかということだった。ちなみに両方のメンバーに入っておられるのが、舎利子や目連、阿難陀や摩訶迦葉ではなく、羅睺羅(らごら)お一人だけというのも、ちょっと不思議だ。
 
 十六羅漢には、日本ではメジャーなびんづるさん(賓頭盧尊者)や、ブッダの教えに従って、一枚の布で掃除を続けて悟りを開いた周利槃得(しゅりはんどく)長老なども入っておられるが、この方たちは十大弟子の中には含まれていない。
 
 また、大乗仏典の冒頭にも、霊鷲山や祇園精舎などでブッダの前に集まった仏弟子の名前が列記されていることが多いのだが、例えば阿弥陀経と法華経の序品を比べてみると、阿弥陀経には十大弟子の内の7人の名が、法華経には9人の名が見えるだけだ。なぜ十人全部が揃わないのか?
 
 さらに、阿弥陀経には法華経の序品には見えない賓頭盧さんや周利槃得さんの名前が見えるが(梵語原文では多少、メンバーが異なります)、かと言って、阿弥陀経の中に十六羅漢全部の名前が出て来る訳でもない。
 
 いっそ五百羅漢なら、全ての著名な仏弟子の名前が含まれているかと思いきや、これまた必ずしもそうではない。この異同の甚だしさは、経典作者それぞれの、単なる好みによるものなのだろうか?
 
 さて、昔、タイで出会った日本人のお坊さんが、テーラワーダ仏教ではいくら修行しても阿羅漢の境地までなんですよ、所詮は羅漢さんなんですよ言っていたことを、今も思い出す。
 
 初期仏教ではブッダの最高の悟りも、多くの仏弟子が達した境地も、同じく阿羅漢果だったとされるのに対し、後世、大乗仏教では、阿羅漢果は小乗の悟りで、それは大乗の仏・菩薩の悟りに劣るとされた。
 
 その議論の是非はここでは問わないが、少なくとも仏・菩薩の悟りと、阿羅漢の悟りとの、どちらをも目指して修行している訳ではない現代日本のお坊さんが、その考えを公式通り口にしても、私には机上の空論にしか聞こえなかった。
 
 てなわけで、私は毎日、自分が目にする大乗経典の冒頭に描かれている、実在の仏弟子である長老や比丘たちと共に、観音、文殊といった大乗の諸菩薩、そして神々や天人たちが、ブッダの前に居並ぶ光景を想像して、とても楽しく嬉しく思うのだが、そんなことを言うと、真剣に瞑想や思索や議論をしている皆さまの、お叱りを受けるかな?
 
                            おしまい。
 
                   
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※写真は台湾の佛光山が出している小冊子です。
採り上げられているのは、摩訶迦葉、阿難陀、周利槃得、維摩居士、達磨大師、鑑真、玄奘三蔵、寒山拾得、善財童子、密勒日巴(ミラレパ)の各師。
楽しい本です…。
 
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