「ブログ」と「私」の関係は… | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 日本人上座部僧の三橋ヴィプラティッサ比丘が、インドのブッダガヤにある日本寺の駐在主任だった頃、岩波文庫の「真理のことば ダンマパダ」がどこかにないかとお尋ねになったので、私の本で良かったらお貸ししますが、と申し上げると、「私の」という言葉をお坊さんが使うのは良くないと、仰られたことがある。

 頭に「し」の付く文字を言ったら負けというゲームを始めた二人が、うっかり「し」の字を口にしそうになる駆け引きを描いた落語の「しの字嫌い」じゃないけれど、あれ、さっきダンマパダは「私の」バイブルだって仰ったじゃないですか、と思わず言いそうになったのだが、その後、三橋師の訳したプッタタート比丘の「観息正念」を読んでたいら、「私は」「私の」という言葉を口にすることが我を増長する、といった意味のことが書いてあって、そうだったのかと思い当たったものだ(例えばPDF版「観息正念」 63頁)。
 
 さて、ブログというものを書いていると、どうしても「私」という文字を入れないと文章が収まらないことが多い。それはそうだ。ブログに「私」の思い出話や「私」の考えを書いているのだから、それは当然のことなのだけれど、ブログの中に「私」という文字を書き込むたびに、ああ、また「私」が出て来た、「我」が多いなあと、心のどこかで、ちょっと気になる。
 
 そう言えば、小学校で初めて作文を習った時に、まず「私は」「ぼくは」と一人称で文章を始めるように教えられたものだが、思えばあの時から既に、文章を書くという行為の中に、「我」は発生していたのだなあと、考えてみたりする。
 
 
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