百歩譲って仏教の話 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 百歩譲って、という言葉をよく使う。よく使ってるな、また自分で言ってるなと、最近、思うことが多いので、なぜだろうかと考えてみた。
 
 誰かの意見を全否定している訳ではない、言いたいことは分かる、多少は理があるとは思う、けれど、それでは駄目なんだと、人に分からせたいシチュエーションが、多いからなのか。
 
 対機説法と言って、相手の状況や性格に応じて法を説くということが、仏教では大事だとされている。例えば、お前は正しいと思ってるかも知れないが、ほんとは間違ってるんだ、仏教が説いているんだから、こちらの言うことこそが真理なんだと、頭ごなしに言ったところで、例えそれが真理であったとしても、相手は納得しない。
 
 その心のひだを、何とかすくい取ろうとして、百歩譲ってという言葉が、自分の中から出てくるのかな?
 
 一歩も譲らない、という頑なな態度ではなくて、百歩も譲ってるということは、だいぶと譲歩させて頂いてるつもりなんですが、それでもこの言葉を使う自分の中には、まだまだ勝った負けたの我執がたっぷりと含まれているのかな? などと自問する。
 
 
 
 
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