仏教の修行に、無言の行というものがあるのかどうか、寡聞にして知らない。ブッダが悟りを開く以前に行ったり、その当時に周りの修行者の間で行われていたという多くの苦行の中にも、私が調べた書物の範囲では、無言行というものが載っていない。
ネットで検索すると、無言行に関するある笑話のことを書いている方がたくさんおられるのだが、そうした笑話が存在するというだけでは、実際にお寺で無言行が行われていたという証拠にはならない。
尤も、単に私が知らないだけで、何を言ってるんだ、仏教の無言行と言えば、みたいに、ご存知の方には何でもないような知識があるのかも知れないので、偉そうに断定はしませんが…。
さて、インドのバラーバル洞窟で、無言修行中のサドゥー(ヒンドゥー行者)に出会ったことがあるので、現代ヒンドゥー教には無言行があるのかも知れない。ただ、その行者さんは、無言の行をしてはいるものの、お坊さん姿の私を見て、声を出さずに笑顔で首を傾けて挨拶してくれたので、無言行の目的は他人を寄せ着けないことではないのだなあと、その愛想の良さを、微笑ましく思ったものだ。
さてさて、やっぱりインドで出会った、とあるベトナム人の巡礼僧、お話しようとしたら、ご自分の口を指差して首をお振りになったので、紙とペンで筆談したのだが、私はその時、その方が無言の行をなさっているのだと思ったものだ。後で思えば、もしかしたらお口が不自由でいらっしゃったのかも知れないのだが、その後、再びお会いすることもなかったので、今に至るまで真相は分からずじまいだ。
ところで、ブッダは身体と言葉と心を慎めとは言っているが、一切喋るな、無言を貫けとは教えていない。ただ、我々凡夫にとって、言葉を慎み、余計なことを話さず、必要なことだけを口にするというのは、なかなかに難しいことだ。
ならばいっそ無言を通した方が楽かとも思うのだが、人間社会に暮らしながら、無言の行を行うことには随分な無理があり、だからこそ、先のような、無言行に失敗するというモチーフの笑話も生まれたのではないかと思う。
そう、やはり、たとえ大変ではあっても、無言を貫くのではなく、適切な量と内容の、正しい言葉を口にすることを心がけ、自他共に正しい心を育てることこそが、仏教にとっての正しい修行なのではないのかな?
※「ホームページ アジアのお坊さん本編 」も是非ご覧ください。