ごく私的な法話の心得 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 日本の仏教各宗派では、布教師資格のようなものを設けているところが多い。
 
 この場合の「布教」とは、法話とかお説教のことで、お坊さんが法を説けば、もちろんそれはすべて法話なのだけれど、さらに法話に関する、より専門的な知識や実践方法を得るための研修を経て取得するのが、この布教師資格だ。
 
 ちなみに私は、この資格を持っていないし、特に法話とはこのように話すべしといった手ほどきを受けていないので、以下に述べることは、あくまで私の個人的な見解ということで、ご容赦の程を。 
 
・法話というのは、講演やスピーチではないから、必ずしも起承転結が首尾一貫している必要はないと思う。それよりも、まず大事なことは、自分が本当にその通りだと確信している仏教的見解を伝えることだと思う。
 
・もしも話した法話の内容が、速記を取って文章に起こしても首尾一貫しているに越したことはないが、たとえ前後の段落が論理的に整合していなかったり、文法的に途中で主語が入れ替わっていたとしても、最終的に法話を聞いている人たちが、あ、なるほどと得心することが大事なのではなかろうか。
 
・上手な法話を自慢にしておられるお坊さんも多いけれど、法話は話術であっても話芸ではない。という意味はどういうことかと言うと、法話なんだから面白おかしく話さず、真面目に話せと言っているのではなくて、反対に噺家さんほど面白く話せるのなら、是非話して頂きたいものだが、生憎いつも聴衆から笑いが絶えない人気のご法話でも、失礼ながら、決してプロの噺家さんの落語ほど面白くもなければ、語り上手でもない。たとえ覚えた通りきっちり話しているだけで、大して受けない前座の噺家さんであっても、基礎を踏まえたプロの芸はやっぱり違うものだ。
 
・なるほど、お寺のお説教も落語発祥の起源の一つで、落語と法話や仏教の関係を研究しているお坊さんや、落語に理解を示して文化的活動をされているお寺さんも複数おられるが、けれどなおかつ、桂米朝師匠も「落語と私」の中で仰っておられるように、現在の法話と落語とは、全く別次元のものだ。なぜこんなことをしつこく書くかと言えば、お若いお坊さんの中などにも、ご自分の法話が落語並みに面白いと勘違いされている方を、しばしばお見受けするからだ。
 
・噺家さんが落語を語る時の呼吸や間合い、話や言葉のメリハリの付け方というものは、大いに学ぶべきだとは思うが、私は自分の法話が噺家さんほど上手だと思ったことなんて一度もない。
 
・上手には話せなくてもいいから、伝えたいことを伝える、伝えるべきことを伝える、真面目にでも、面白おかしくでも良いから、自分が本当に正しいと真底、確信していることを、借り物ではない自分の言葉とスタイルで伝える、そしてその仏教的見解によって最終的に聞いている人の心に何らかの安心を与えることをこそ、一回一回の法話の中で、常に心がけるべきだと思う。 
 
 
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