「宿坊」という言葉には「宿房」という表記があり、「僧坊」にも「僧房」という表記がある、はて? という話は、以前にわりとしつこく書かせて頂いた。
ところが今度は、そう言えば、お坊さんが僧坊名を名乗る時の「坊号」にも、「坊」と「房」がある、この違いは 何なのだろうと気になりだした。例えば武蔵坊弁慶には、「武蔵房」という表記もある。どちらでも良いのだろうか?
思いつく限りでは、昔のお坊さんの坊号には、「房」の字が使われていることの方が多いように思う。例を挙げると…
・定心房 良源(元三大師)
「山の坊さん 何食うて暮らす 湯葉の付け焼き 定心房」という俗謡にある定心房とは天台座主でもあった元三大師の考案になる大根漬けのこと、大師の坊号が漬物の名前の由来となった。
・法然房 源空
浄土宗の開祖、法然さんの「法然」は実は坊号で、お坊さんとしての正式な法名は「源空」だ。
・解脱房 貞慶
解脱上人の「解脱」も、実は坊号。法名は「貞慶」。
・葉上房 栄西
臨済宗の開祖、栄西さんの比叡山時代の坊号が「葉上房」。天台密教の葉上流は、この坊号に由来する流派。
さて、「房」ではなく、「坊」の字を使った坊号は、先程の「武蔵坊弁慶」や歌舞伎でおなじみの法界坊(実在の法界坊は、歌舞伎のような破戒僧ではないとの説あり)、或いは善界坊、太郎坊、僧正坊といった天狗たちの名前(天狗の名前に「坊」が付くのは、天狗が修験者のイメージとも習合しているからだろう)などのように、比較的、新しい時代で、なおかつ説話や芸能の中の主人公に多いようにも思うが、弁慶の「武蔵坊」と「武蔵房」はそれぞれ古い書物にも見えているから、一概には言えない。
ちなみに現代では「坊」の字の方が主流で、例えば天台宗の寺籍簿を見ると、比叡山三塔の全ての寺院の中に「坊」の付く寺や塔頭の名前はたくさんあるけれど、「房」の字は見当たらない。僧坊についての考察でも述べたように、「坊」が建物、「房」が部屋を表すとは、単純に言い切れないので、事態はややこしい。
ところで、実際に僧坊に住んでいなかったり、僧坊そのものが実在していなくても、道号と同じ意味でお坊さんが坊号を名乗ることもあるのだが、私がお坊さんになりたての頃、坊号というのは自分で付けるものだということを小耳に挟み、これは雅号と同じで、一見、風流に見えるけれど、号名を考える時の思考回路には、風流気取りの我が付きまといやすそうだなと危惧したものだ。
長くなりついでに、戯作者、俳人、文学者などの号や住居にちなんだ呼び名を見てみると…
・芭蕉
坐興庵・栩々斎・芭蕉洞・芭蕉庵・芭蕉山人・風羅坊
・本居宣長
鈴屋大人
・本阿弥光悦
太虚庵
・太田南畝
蜀山人・寝惚先生・四方赤良
・山東京伝
山東庵・山東窟・山東軒
・式亭三馬
四季山人・本町庵・遊戯堂・洒落斎(しゃらくさい)
・十返舎一九
十返舎・十返斎
・滝沢馬琴
曲亭・著作堂主人
・上田秋成
剪枝畸人
・平賀源内
風来山人・天竺浪人
・早野巴人
夜半亭(弟子の与謝蕪村も夜半亭二世を名乗る)
・夏目漱石
愚陀仏庵
・正岡子規
獺祭書屋主人
・芥川竜之介
餓鬼窟
・遠藤周作
狐狸庵
・荒俣宏
游魚亭
いかがでしょうか? 風流でいいなあ、そんな号を自分も付けたいなあと思われましたか? でも、日本人のこうした号を名乗る伝統が、亡くなった著名人に、お坊さんが気の利いた、ひねった戒名を付けたり、或いはお坊さんでない一般人が、生前に自分で洒落ていると思い込んだ奇妙な戒名を付けておいたりという悪しき現象の、基になっているのではないかと思う。
お坊さんが修行のために、庵の名前や坊号を付けること自体は否定しないが、後はその名前を考える時に、よし、一つ、他にはないような洒落た名前を付けてやれ的な、我執に満ちた思考回路が発生しないことを祈ります。
おしまい。
※お知らせ※
テーラワーダ仏教の考え方や瞑想についてお知りになりたい方は、
タイの高僧プッタタート比丘の著作の
三橋ヴィプラティッサ比丘による日本語訳CD、
アーナパーナサティ瞑想の解説書「観息正念」、
アーナパーナサティ瞑想の解説書「観息正念」、
並びに仏教の要諦の解説書「仏教人生読本」をご覧下さい。
入手ご希望の方は、
タイ プッタタート比丘 「仏教人生読本」「観息正念」改訂CDーR版 頒布のお知らせをご参照下さい!!
タイ プッタタート比丘 「仏教人生読本」「観息正念」改訂CDーR版 頒布のお知らせをご参照下さい!!
ホームページ「アジアのお坊さん」本編
も是非ご覧ください!!
も是非ご覧ください!!