アラハン サンマー サンブッドー バガワー
ブッダン バガワンタン アピワテーミ
またしても古いアニメネタで恐縮ながら、「天才バカボン」の中に、バカボンのパパがどこかの五百羅漢をお参りして、この中に必ず自分とそっくりな石像が一つあると言われて探してみたら、自分と同じ顔の像の首が落ちていて、死の恐怖に怯えるという回があった。
探せば我々によく似た顔が見つかるという俗信があるのを見ても分かるように、羅漢さんの絵や像は、至って人間的な姿に描かれている。中国でも日本でも、羅漢像は禅画風、俳画風、仙人画風に人間っぽく描かれているが、これは大乗仏教では阿羅漢は仏や菩薩の境地に及ばない、低い悟りの境地だとされていることの表れでもある。
しかし、仏教辞書的などで「阿羅漢」の項を見て頂ければ、どこにでも書いてある通り、初期仏教においては、ブッダの到達した境地こそが阿羅漢果であり、そして仏弟子たちの多くも阿羅漢果の悟りに達したのだとされている。
この初期仏教と大乗仏教における阿羅漢の解釈の違いは、現在でもテーラワーダ仏教と大乗仏教の間で議論の対象になりがちだから、2000年も昔から、まだこの問題は決着を見ていないことになる。
この件に関しては、ネットなどでもいろいろな方が自説を述べておられることと思うが、深入りするとややこしいことになるので、例によって私の個人的な思い出話ということで…。
・タイでテーラワーダ比丘として修行中のこと、他のお寺で修行中の日本人比丘の方が、と言っても、その方は日本のとある宗派のお坊さんで、宗派からの出向で比丘修行されていたのだが、結局、テーラワーダでは最高でも阿羅漢果なんですよ、行けても羅漢さんまでなんですよと力説しておられた。阿羅漢果だったら最高の悟りじゃないの? と思う私とその方とでは、話は平行線だと思ったので、私は知らんぷりを決め込んだ。
・同じ頃、今度は私をタイに派遣して下さった育英会関係の、お坊さんではない日本人教授の方がタイのお寺を訪ねて来て下さり、いろいろお話をさせて頂いた。そこで、持戒と瞑想の修行によって悟りを得て、と私が言うと、え? あなた、人間に悟りが開けると思ってらっしゃるの? うふふ、ほんとにそう思ってるんだ? えへへ、とその方はにやにやお笑いになって、どうやら悟りというものが明晰に進むべき境地ではなく、形而上の、もしくは想像上の超能力的な何かだと思っておられるご様子で、これまた平行線だと思った私は、やっぱりそこで知らんぷり。
…何にしても、何ら修行の成果を得ていない者同士が、用語だけを採り上げて机上の空論を交わしていても水掛け論になるだけではないかと思うので、今、ここから、着実に進める所へ進むべく精進するのが大事なのではないかいなと、現在の私は思います。
おしまい。
ナモ タッサ バガワト アラハト
サンマー サンブッダッサ
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