子どもの頃や若い頃によく読んだ本を、今、読み直してみたらどんな風に感じるだろうかと思って、いくつかの本を読み直している。
とは言っても、私が小学生の時に絵本や童話以外に自分の意志で読み出したのが、まずは奇術の本、それから追い追いに今も読み続けている江戸川乱歩、そして内外の探偵小説という順なので、別にことさら世界の名作や文学的小説ばかり読んで来て、今、その理解度を確かめてみたいと思ったという訳ではない。
私が海外や日本の大人もののミステリをたくさん読んでいることを知った友だちの父親が貸してくれた松本清張の「砂の器」を読んだのも、小学校の高学年の時だったのだが、今思えばどれだけ理解できていたことやら。
プロのミステリ作家であれ、ミステリ好きの一般人の方であれ、何歳の時からこんな本をもう読んでいたという自慢をする方が多いけれど、多分、たとえ大人向けであっても、奇術や推理小説の本は、理解度とは別に、子どもにも読めてしまうのだと思う。
さて、最近に読み直したのは、アガサ・クリスティの「ゼロ時間へ」。これは中学に入ったくらいに読んだ本なのだが、今回読み直してみたら、探偵役のバトル警視の、こうした出来事は我々への試練として起こることなのです、というセリフがあって、ぼちぼちと宗教的なものに興味を持ち始めだした頃に、いやなことがあっても、それは自分に課された試練なのだと思うように言い聞かせていたのは、このセリフが起点だったのかと気がついた。
その少し前に読み返したのはチェスタトンの「ブラウン神父の醜聞」。5冊あるブラウン神父シリーズの最終巻で、巻を追うごとに段々とトリックや創意がお粗末になっていると言われている通り、昔に読んだ時はほとんど印象に残っていないのに、今読むと面白い、面白い。
5巻翻訳完結にちなんで訳者の中村保男氏が解説を書いている中で、チェスタトンが自身の「宇宙観」について述べた言葉が紹介されているが、私が高校生くらいの時に、「世界観」ではなく、自分の「宇宙観」を構築したいと公言していた源泉は、何だ、こんなところにあったのかと、これもまた気がついた。
そして今、読み直しかけているのがドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」。江戸川乱歩がいくつになっても繰り返しドストエフスキーを読む、と書いている文章を私が読んだのが、小学生の時。そして実際に私が「カラマーゾフ」を初めて読んだのは、二十歳を越えてからだった。
神と人間の問題を主題とする世界最高の文学でありつつ、ミステリとしても読める面白さだと言われ、宗教書や哲学書や推理小説をたくさん読んだ後に読んだのに、残念ながら少しも面白く感じなかった。
なぜなのか? そう思って、今、新潮文庫で読み直し始めたところなのだが、どうしたことやら、ごくごく普通に面白く、冒頭からぐんぐんと引き込まて行く。
なぜこの面白さがわからなかったのか? 年を重ねて経験や理解度が増したということもあるのだろうけれど、それよりもやっぱり機が熟していないと何事も成就しないのだ。
今から死ぬまでに読める本の数など限られている。そう思って、仏教書と並行して、読みたい本を、今、読んでいる。子どもの時に読んだ何が今の私を培ったのか。今読んでいる、何が私の未来を培うのか。楽しみながら、死ぬまでに今よりも、より良い心を育てることができるなら!
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