一休道歌に、「袈裟ころも ありがたそうに 見ゆれども これも俗家の 他力本願」という歌がある。
「他力本願」の用法が適切かどうかの議論もあるが、一休さんが何百年も前に詠んだ歌なので、その部分についてはご容赦を。
さて、先日も書いたばかりだが、テーラワーダ仏教のお坊さんは、古くなった衣を雑巾代わりにして、僧坊の床を掃除したりする。
もちろん、袈裟というものが、本来、ボロギレを綴り合わせた、無執着のための糞掃衣(ふんぞうえ)だとは言え、南方上座部のお坊さんにとっても、法衣と托鉢用の鉢は、三衣一鉢と言って、僧侶が所有する最低限の持ち物であり、無執着の象徴でもあって、決して法衣が粗末にされている訳ではない。
で、今日のお話。タイのお寺で修行中、よそのお寺の坊さんが、ある国では、袈裟はこんな風にささっと右肩を出して黄衣を引っ掛けるだけの着方で、とても楽だそうだ、タイと違って難しい巻き方もなく、脇を常に締めて衣を挟んでる必要もないと教えてくれた。
その後、インドネシアを巡礼中、インドネシアはタイより暑かったので、早速、その着方を試したら、楽だし涼しいし、何て快適かと思い、タイに帰ってからも、お寺の境内でその着方で歩いていたら、ロシア人僧侶に呼び止められた。
ルアンポー(住職)があなたの袈裟の着方がおかしいと言ってるよと、私のタイ語が拙いので、私よりタイ語が堪能なロシア人やモンゴル人のお坊さんを介して、住職が私に注意してくれているらしい。
え? どこそこの国ではこの着方らしいよと、まだ言う私に、うん、それはそうかも知れないけど、ここではその着方は駄目だから早く直さないとと、彼が言ってくれて、こんな着方もあるよとか、楽で快適だからこれでいいんだとか、今にして思えば、そういう思いを断ち切るためにこそ、比丘はお袈裟を着ている訳で。
おしまい。
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