本当に要らないもの | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

わが体 焼くな埋むな 野に捨てて
       痩せたる犬の 腹を肥やせよ
                    「一休道歌」(禅文化研究所)より

 「葬式は、要らない」(幻冬舎新書)という本が出た時に、この本の既成仏教批判はともかくとして、葬式は要らないけれど、戒名は自分で付けるというその一点に限って言えば、それはおかしいのではないだろうかと感じたものだ。

 それなのに、「葬式は、要らない」の後に同じ著者が、同じ幻冬舎新書から、自分で戒名を付けるためのマニュアル本、「戒名は、自分で決める」を出版された。

 既成の葬儀がどうだとか、戒名料が高額だとか、そもそも本来の仏教に、死者の戒名という考えはあったのかといった議論はさて置いて、ごく単純に、既成の葬式には不満があるが、戒名は必要だから自分で付けるという考えは、論旨がおかしいと思う。

 色々と、仏教者が自分で戒名を付けた例なども踏まえてみたり、別の著者の自分で付ける戒名本が、その後に何種類も出版されたり、或いはお寺の側が有名人の戒名に、個人の業績を踏まえたひねった戒名を付けたりするのも悪影響を与えているのだろうけれど、みんなが戒名のことを雅号か俳号みたいなものだと間違えて、上手な名前を付けるのが、戒名授与の意味だと、勘違いしているのではなかろうか。

 さて、話は変わるが、家人に反対されながらキリスト教を熱心に信仰していた私の知人が死んで、どうせ世間でよくあるように、遺族の勝手で仏式の葬儀になるのだろうと思っていたら、個人の遺志を尊重して、キリスト教の葬式が行われた。

 ところが、その後の追善供養は仏式で行うことになったんだとか。双方の都合の摺り合わせなのだろうけれど、仏式の葬儀を行っていないのに、四十九日で満中陰? 所詮、世間のすべての儀礼は、人間が人間社会の範囲内で作り上げたこしらえ物なのかも知れないが、だからと言って、意義を無視して行うそれは、ただのままごとに過ぎない。

 私も葬儀は、意味を踏まえた上でなら、簡素でいいと思うし、私自身の葬式も、私は要らないと思う。けれど、葬式や戒名以上に、今の日本人が考えたり、していることの中には、本当には要らない余分なものが、余りにも多すぎる。



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