天台宗で良かったなあ。 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 最近思うのだが、明治以降に仏典の文献学的研究ができるようになって、初期仏典が知られるようになり、今や岩波文庫でも手軽に主要な原始仏典が読めるようになったばかりか、インドだろうが中国だろうが、行く気になれば誰だって行ける時代に生きている我々と違って、昔はインドにお経を取りに行くなんて、それこそ孫悟空が同行してくれたとしても、本当に大変だっただろうと思う。

 それを中国語に翻訳するのも大変なら、ましてや整理し、理解し、それに則って修行するなんて大変なことだっただろう。天台大師智顗(ちぎ)はそれをやり遂げようとしたのだから、本当に大変だったと思う。

 そしてそれが日本に伝わるのも大変なら、難しい漢文の経典群を、やはり整理し、理解し、それに則って修行するのは大変だった訳だ。伝教大師最澄はそれに挑戦し、最後に残した言葉がわかりやすい日本語の「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」であったということは、膨大な漢訳の経典群の中から、伝教大師がブッダの教えをよく咀嚼して、体得していたことを示しているのではなかろうか。

 私が天台宗を選んだのは坐禅、法華経、念仏、密教、すべてを学ぶことができるから、という理由が大きかった。比叡山で出家後に、アジアで修行させて頂いて、坐禅瞑想を旨とするテーラワーダ仏教に出会っても、或いはチベット密教徒であるチベット人やブータン人やモンゴル人と話していても、また或いは禅、念仏、法華経を併修する韓国や台湾に出かけても、私は自分の天台宗僧侶としての修行を踏まえて、それぞれに対峙することができた。

 私も在家からお坊さんになりたくてなった一人だから、世間一般の方々や、学者さんたちや、自称改革派のお坊さんたちが仰る日本仏教の問題点はよく分かっているつもり、と言うよりも、そんなことはお坊さんになる前から分かっていた訳で、それでもなおかつ、そうして伝わって来た仏法を踏まえて修行できるお坊さんになれて、本当に良かったなあと、今、改めてつくづくと思う。

※2008年9月投稿分を改稿しました。

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