近頃、雨後の筍のように玉石混交の仏教書が出版されている中で、ベトナム人僧侶ティック・ナット・ハン師の著作も、新旧おしなべて、たくさん出版されている。タイトルを口にするのも恥ずかしいような、日本人著者による奇妙な仏教書の大群が後押しして、こうした良書が従来以上に日の目を見ているのなら、それもまた良しとすべきだろうか。
ティック・ナット・ハン師の「禅への鍵」(春秋社)も、最近に新装版が出ているのだが、私がこの本の旧版を読んだのは、ちょうどアジアでの修行を終えて、そこで得たものを、日本仏教僧である現在の自分の中で、どう生かすかを模索していた頃のことだった。
ベトナムは大乗仏教と上座部仏教が混在している仏教国だが、大乗仏教の僧院生活におけるあれこれを、上座部仏教的な mindfulness (気づき=sati)の観点から解き明かしてある「禅への鍵」を一読して、目から鱗が落ちる思いがした。
私たちは日本のお寺の小僧生活で、戸を静かに開け閉めすること、畳の縁を踏まないこと、立ち止まって挨拶すること、足音を立てずに廊下を歩くことといった、様々な作法をやかましく躾けられる。
それらは決して単なる世間の礼儀作法と同じものではない。それぞれの行為そのものは、格別に徳の高い行為ではなくて、一瞬一瞬に気づきを持ってその動作を行うことが肝要なのだと、ティック・ナット・ハン師は説く。
ベトナムのお寺でも日本のお寺でも、例えば半鐘を叩く時、水を汲む時、お堂に入る時、いろんな時に唱える短い偈文(げもん)が決まっていて、場合によってはそれらを唱えるべき寺院内の各箇所に、その偈文を書いた木の札が貼り付けてある。
それもまた気づきを促すためなのだという師の説明を読んだ時、日本のお寺での修行時代に覚えるのに苦労した様々な漢文の偈文が、一瞬で自分の心をリセットするための、単純にして効果的な装置だったことに思い当たり、驚いたものだ。
というようなことを最近に考え直したのはなぜかと言うと、京都の荒神さんとして知られる天台宗の護浄院という、荒神口にあるお寺を参拝して、火之用心のお札を見たからだ。
同じく京都の火伏せのお札として有名な愛宕神社の「火迺要慎」札も同じことで、お札さえ貼っておけば、どれだけこちらの心がいい加減で疎かでも、神仏が守ってくれるから火事にはならない、という訳ではなくて、やっぱりこれはお堂内に貼ってある偈文の板が私たちの気づきを促すのと同じように、目の前の台所の壁に貼ってある大きな火伏せのお札を見て、ああ、そうだ、うっかりしていた、もう一度気をつけて火元を確認しなければと思い返すための、指差し確認票なのではなかろうか。
そう言えば、「用心」=「心を用いる」のも、「要慎」=「慎みを要する」のも、ほら、どちらも正に sati=念=気づきを説明するのに、ぴったりの言葉ではないですか?