賢い人たちが、なぜ悪い宗教に騙されるのですか? | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

 「賢い」という言葉を使うと、じゃあ、何を以ってして「賢い」と言うのか、という議論に陥りかねませんので、ここでは単純に、学校の勉強がよくできる人や、高学歴な方たちを指すことにします。

 「賢い人たちが、なぜ悪い宗教に騙されるのですか?」という質問は、学校の勉強ができる人ほど、世間や人間のことがわかっていないもんさと、近所のオッサンがよく言うような意味で、わざと揶揄して聞いているものなのか、本当に高学歴で頭のいい人が、どうして怪しいニセ宗教なんかに騙されるのだろうかと、本気で不思議がっているが故の質問なのか、一体どちらなのでしょう?

 学校の勉強ができようが、できなかろうが、会社で偉い地位についていようが、いなかろうが、或いは明るい性格だろうが、落ち着いた気性だろうが、男であれ、女であれ、人はみな、いくつになっても、どんな経験を積んできていても、誰かに頼りたいものなのです。

 小さい頃、わからないことがある時は、どうすればいいのかを、手取り足取り、教えてもらい、あまつさえ、じゃあ、しょうがないわね、代わりにやってあげるわよと、誰かが言ってくれていたあの感覚を、人は心の奥底で、いつまでも忘れられずにいます。

 うまく行った時には、お前は利口だね、何て賢いのと、必ず褒めてほしいのです。宗教団体であれ、他の組織であれ、全面的に信頼さえすれば、後は判断をすべて委ねてしまえるなら、こんなに楽ないことはないと、人間は思うものなのです。

 偉そうに言ってるけれど、それじゃあ仏教はどうなんだと仰るかも知れませんが、仏教では自らを依り所、法を依り所とせよとブッダが説く通りです。その方法は誰かにすべてを任せて、判断を委ねてしまうことに比べたら、楽ではないと思うかも知れませんが、きっとその先には、本当の意味での安楽の境地が、待っているはずではないのでしょうか。